らっきょう  嘘

人闇煙処(じんあんえんしょ)

(2013年2月8日更新)

  • 人間は大体嘘をつく。 「私は生まれてこの方一度も嘘をついたことはありません。」という御仁がいたら、間違いなく大嘘つきか、人間ではない何かだろう。 ここでいう嘘とは、例えば、朝お化粧をして、自分の姿を欺いたり、奥様に今日も綺麗だねとか言う亭主レベルのことである。 現代社会は言わば、嘘の上で成り立っている。 わかりやすく言うと、 「奥さん今日入ったばっかりの大根、奥さんくらい新鮮だよ」 「今がおすすめです。確実にもうかります」 「あきらめるな。夢は必ず叶うものだ」 という類のものは、全て嘘だということである。 現代社会で生きるということは、ちょっとした嘘は避けて通れない。 嘘は言わば生活の一部みたいなもので、嘘をつくことで、少しのストレス解消になっていたり、仕事上の必要だったり、人によっては、楽しみの一つだったりする。 例えば落語なんかは、よく嘘つきの話が出てくる。 有名な「まんじゅう怖い」なんかは、まんじゅうを食べたい男が、まんじゅうが怖いと言って、まんじゅうをせしめる話だが、人を騙す悪い嘘なのに、どこかで微笑ましさを感じる。 「芝濱」の女房は旦那の話しを夢だと嘘をつく。 落語の話の大抵は、嘘をつくことでおかしさや優しさが生まれ、嘘が生活の中に必要であることを思わせる。 嘘をつかれた方も、してやられたと、悔しそうにするくらいで、怒り爆発するわけでもない。 そこに嘘についての寛容さも感じ取ることができる。 しかし、落語はそもそも庶民のモノなので、これがもっと高尚な倫理を考える宗教だとどうか。 よく言われるのは嘘をつくと地獄に落ちるとかいうあのえげつない予言なのだが、そもそもこの言葉は宗教概念から来ている。 そもそもの地獄の話をすると、世界的な宗教概念の中にも、地獄というものはあって、英語でも「hell」という単語があるように、地獄は存在する。 ただ海外の地獄は仏教概念のそれとは違い、ただ苦痛を与えられる世界ではなく、再生のための休み場所のような位置づけだったりするようで、特に悪魔の住む場所、とかいう感じでもないらしい。 仏教的概念だとどうかというと、これは相当にエグい。 宝島社の「地獄の真実」という本によると、仏教世界では嘘の扱いは親を殺したり、女性を強姦したりするのと同じくらい、悪いことに位置しているらしい。 「大叫喚地獄」という聞くからに怖そうな地獄の中の、「人闇煙処(じんあんえんしょ)」とか言う地獄では、実際は財産があるのに財産が無いと嘘をついて、本当は手に入れる資格がないものを手に入れたものに対して、細かく身を裂かれて、骨の中さえも虫が生じて内側から食われるそうだ。 再生してもひたすら裂かれるので、気分はサイコロステーキなのだが、なんとも恐ろしい。 聞くところによるとどこかの市では、不正に生活保護を受けまくっているとの事なので、この地獄を聞くと戦々恐々だろう。 またまた話は変わるが、僕の学生時代の話で、バイト先で知り合った友達のK君はちびでガリだったが、元ボクサーだという。 流石に見た目からして嘘だと言うと、自分は軽量級だ、プロのライセンスも持っているという。 本人がそういうのならとそのままにしていてが、ある日、夜中バイトしていると、見事に酔っ払いに絡まれた。 バイト先がカラオケ屋だったので、深夜の客を相手にしているとまあよくあることで、僕たちは比較的対処も慣れていたのだが、その日は自称元ボクサーに対応させてみた。 ボクサーなので、きっと対処もスマートに決めてくれるだろうと、悪い友達がからかい半分で任せたのである。 しばらくすると当然のように「表出ろやコラ」的になって、元ボクサーがさらわれると、彼は店の前でステキな土下座を見せてくれた。 そのあと警察を呼んだ友達の機転で、何もなかったのだが、彼に聞くと、「プロは拳が武器やから、手が出されへんのや」 と来た。 流石にここまで言い通されると追究もかわいそうなので、とりあえずじゃあもうボクサーでいいやとなった。 しかし、その後の彼の影のあだ名が「ドゲザー」になったのは、彼は最後まで知らなかった。(と思う) 嘘を突き通すのも度胸がいるという話である。
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