ツンデレ  レゲエ

ラスタファリ運動

(2012年10月13日更新)

  • 最近は自分の行動圏が狭くなったためか、本当にいなくなったのか、ドレッドヘアを見かけない。 僕が大学生の頃に随分流行って、僕も気合いを入れてやってもらおうかと思ったが、友達のロック好きから、頭が洗えないし手入れが大変と聞いて、ズボラな僕がやるとファッションではなく汚いくせ毛の人で終わりそうなので、辞めた。 当時の大阪は北の繁華街でも、随分とレゲエを流す店が増えて、ああ、レゲエはブームなんだなあと思ったものだが、流行りものに目がない僕も、デニス・クエイド とかジミー・クリフとか、何かそれっぽいジャケットのものを買って聞いてみたが、テンポが似通ってっていて、何だかオールディーズを聞いているような感じがした。 流行っていた頃はアシッド系の音楽が混合して、全般的にメロウな雰囲気があって、深夜帯にレゲエが流れると、何となく帰りたい気分になったのを覚えている。 レゲエと言えば反射的にジャマイカを思い出すが、彼らの音楽は基本は黒人音楽にそのルーツが有り、ジャズのリズムがベースになっているらしい。 黒人音楽だけあって、リズムは素晴らしいものがあるのだが、歌詞は比較的反体制のものが多いようだ。 理由はジャマイカ自体が黒人奴隷やマルーン(脱走奴隷)が多く占める国で、弾圧の歴史があるからこそ、人は歌でその時の悲しみや、苦しみを歌うのだろう。 ラスタファリ運動(アフリカ回帰主義)が起こると、黒人の誇りを取り戻すべく、強い民族の主張を行う音楽もしばしば作られた。 20世紀の終わりには、キリスト教パプティストの宗教的影響もあって、思想的に保守的な音楽は、そのまま社会的な背景として、同性愛者を批判するホモフォビア的な内容のものを多く輩出している。 レゲエは、社会的なメッセージを唱えるものが多く、日本人のように流行り廃りで聴く音楽ではなく、どちらかというと、精神に根ざしたソウル・ミュージックなのである。 音楽に民族の誇りのようなものが有り、粗末にすると、昔映画「マルコムX」が流行った時に、「マルコムX」のTシャツを来ていただけで、理不尽にも黒人にボコられた日本人がいたが、これと同様にいわれなき民族的怒りを受けてしまいかねない。 少なくともテンポが遅くて眠くなる、と言った感想を持つと、ジャマイカの人にしばかれてしまうかも知れない音楽と言えるのである。 まあ、物騒な話は別として、世界には民族に根ざした、ステキな音楽が沢山あって、苦しい時代に音楽で支えられていた人がいかに多いのかが分かる。 時代を越えて、昔ほどではない暮らしになっても、その音楽は廃れず、民族的回帰とも言うのだろうか、心の中のどこか深い部分でいつまでも大切な音楽として残るようだ。 加えて、音楽の良さは、その内包する歴史とは関係なく、格好いいか悪いかで判断され、格好が良ければ今の形にデフォルメされ、連綿と受け継がれていく。 ボブ・マーリーは知らなくても、「I Shot the Sheriff」は知っているように、いい物はやはり残っていくのである。 僕は日本人なので、演歌がそれに当たるのか、と思ったのだが、「天城越え」の鬼気迫る熱唱はなかなかに格好いいとは思うのだが、「北の宿」はサブイボ全開である。 着てはもらえぬセーターを編む女性は想像するだけで、ブルっとくる。 アコースティック・ギターの音楽文化も歴史は浅いがソウル・ミュージックではないかとは思ったが、神田川がソウルミュージックと言われると、いい歌だがちょっと違うかなあと思ってしまう。 そうやって取捨選択すると、童謡(または民謡)が日本のソウル・ミュージックではないかとなってしまう。 日本人は歴史的には外国に圧力をかけられた時代はあったが、黒人社会よりかはマシだったこともあり、社会に訴える内容や、プロレタリア的な内容よりかは、叙情的でどこか牧歌的な詩を好むように思う。 童謡は日本の四季のある原風景に対して、その音楽性を遺憾なく発揮している。 日本人の音楽で売れ行きがいいのは、ロックよりバラードが多いそうだが、これも日本人の精神に童謡がびっちりと張り付いているからで、叙情的な美しさを持つメロディーに惹かれる人が多いからなのではないだろうか? ここまで書いて、はたと気づいたが、やっぱり日本人はどこか地味で野暮ったい。 音楽はやはりもっと魂が揺さぶられるような、激しいビートと情熱がなくてはつまらぬ。 少なくとも、バラードを聞いてしっとりしているようではダメなので、コブクロはしばらく端に置いて、無骨なロックでも聞いていこうではありませんか。 すいませんこんな結論で。
■広告

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ
↑↑クリックお願いします↑↑

Previous:ツンデレ Next:えくぼ 目次へ