ずいずいずっころばし  シンデレラ

シンデレラコンプレックス

(2012年6月24日更新)

  • シンデレラといえば、昔シンデレラエクスプレスと云う東京発新大阪行きの最終便新幹線を思い出す。 特にテレビコマーシャルが良くて、若かりし牧瀬里穂さんや深津絵里さんが出演したことでも有名である。 何故シンデレラだったのかは確か時間がピッタリ何時かだったので、そんな名前がついたように記憶しているが、シンデレラという名称がよかったのか、以降何年かそのCMを見た記憶があるので、評判は良かったのだろう。 以前どこかにも書いたが、童話と言うものは大抵の場合、民間伝承が多く、似通った話がギリシャや中国など、いろんな地域で存在することが往々にしてあるのだが、シンデレラもその類から漏れず、世界各国に同様の話があるらしい。 しかし、よく知られているシンデレラの話に出てくるものとは話の骨が同じであるだけで、物語の中の必要不可欠なものが欠けていたりする。 例えばシンデレラに必要不可欠な者と言えば、「ガラスの靴」「かぼちゃの馬車」「魔法使い」と言うアイテムと、「12時の鐘」「意地悪な継母と二人の姉」という物語のキーがあると思うのだが、これら物語の核となる部分が近いものは、一般にフランスの文学者シャルル・ペローの残した「サンドリヨン」だと言われている。 またこのペローの影響を受け、多くの童話を残したグリム兄弟も、このシンデレラのお話を「灰かぶり姫」という形で書き残しているが、魔法使いやガラスの靴は出てこないらしい。 しかも二人の姉の目を白い鳩が潰してしまうおまけ付きである。 グリム兄弟らしいといえばらしい。 グリム兄弟と言えば「白雪姫」を思い出す人も多いと思うのだが、この物語の初版はかなり凄惨である。 白雪姫を殺そうと企む継母は、グリムバージョンでは実の母であり、しかも焼けた靴を履かされて殺されてしまう。 ついでに書くと7人の小人は人殺しだし、王子は眠る白雪姫をニヤニヤ見続ける変態である。 先日、「スノーホワイト」という白雪姫のリメイク映画を観に行ったのだが、初版のバージョンならシャーリーズ・セロンも継母役を引き受けないだろうとは思う。 今も語り継がれる童話が、過去には凄惨な物語だったのはよく知られる。 それは物語で人間の根源的な欲求を表現し、人間の業の深さを感じられるからこそ、定着し現代まで残り続けたのではないだろうか。 しかし、現代社会ではそれら禍々しいものに蓋をして、人間的な姿を覆い隠してしまうことで、美辞麗句で揃えた道徳や良識を植え付け、美しい心根の子供たちを育てる事に躍起になってしまっている。 それは悪くないことなのかもしれないが、僕は本来人間の暗部を知るからこそ、人として強くなり、自ら考える道徳や良識を身に付けていくと考えるので、陰惨であれ、ありのままの物語に子どもが触れるのも、そこまで悪いことではないと思っている。 テレビを観ていても、差別用語やモラルについての言動・行動を規制する向きを感じる。 しかし、考えてみればこれは「くさいものに蓋」をしただけの問題で、本当に汚れた一面を拒絶し続けた子供たちは、アフリカで飢えていく子供たちや、過去の帝国主義や、パレスチナ問題や、ダルフール紛争や、ビクトリア湖の荒廃や、インドの売春窟や、アフガンの子どもの兵士や、その他沢山の凄惨な現実を、どう処理していくのだろうか。 本当の良識は、現実から目を背けないことで生まれるのではないかと思うわけである。 最後に、シンデレラコンプレックスという言葉がある。 要はシンデレラの物語の様に、男性に依存して幸せを得る女性のことを指すそうで、簡単にいえば「白馬に乗った王子様」を待っている夢見る世代の女子を総称するそうだ。 過去、女性解放運動家や当時のウーマンリブを叫ぶ女性からは、どちらかというと倦厭された言葉であった。 美しい物語だからこそ幻想を抱き、その幻想に憧れる。 しかし、世の女性が「白馬の王子」とやらに過剰に憧れられると、世の男性のほとんどは子孫を残すことができない。 なるべくならば世の女子が憧れるような爽やかな物語は発禁にして、もっとこう、中の中くらいの人でも女子に憧れてもらえるような話しを作ってもらえないかと思う。 意外とこんなことが一番の少子化対策かもしれない。 そんなわけないか。
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