クズ  ずいずいずっころばし

童謡と口承伝播

(2012年6月9日更新)

  • 僕の勤め先は転勤が多く、また若い人間も多くいるためか、職場の出身地が人それぞれで、それこそ北海道から沖縄までいたりする。 そういう環境にいると、酒の席などで、生まれた街ではこういう遊びがあったとか、こういうCMがあったとか、所謂地方ルールの話になりがちで、子供の頃からあったものが、他の街に生まれた人にとっては当たり前でなかったりと、新しい発見をすることがままある。 例えば、僕は大阪出身なのだが、子供の頃によく友達とやった靴隠しという遊びがあって、この遊びの時に歌う歌が驚いたことに、大阪(一部の関西圏)出身の人間しか知らないのである。 簡単に内容を説明すると、靴を並べて、以下の歌を歌いながら靴を指定し、最後に止まった人が鬼で靴を隠されるという、至ってシンプルな遊びである。 「靴隠しちゅうれんぼう 橋の下のネズミが 草履を加えてチュッチュクチュウ チュッチュクまんじゅうは誰が食った 誰も食わないわしが食った 表の看板三味線屋 裏から回って三軒目 いち にい さん」 僕はこの遊びが比較的好きだったので、この歌も遊びも知らない人がいることが驚きで、僕にとっては、かくれんぼを知らない人が居るくらいの衝撃だった。 ところがこの歌は他にもいわくがあって、大人になってから誰かに大阪に多い被差別部落の歌だと言う事を聞いて、相当に驚いたのを記憶している。 歌詞のどの部分だったか忘れたのだが、そもそも僕の生まれた地域は同和問題の強い地区だったこともあり、真偽を確かめず、ああそうかもと変な納得をしたのを覚えている。 童謡やわらべうたには大抵裏の意味があり、およそ子供向きではない陰惨な内容であることはよく耳にする。 例えば「かごめかごめ」という童謡は、有名ではあるが歌自体がとても怖い。 キーワードは「籠目」「籠の中の鳥」と「夜明けの晩」「鶴と亀が滑った」「後ろの正面」である。 「籠目」「籠の中の鳥」は鳥を人に見立てると、何となく陰惨とした図柄が浮かび、「夜明けの晩」「鶴と亀」「後ろの正面」は、その言葉自体が対称的または逆説的で、考えれば何のこっちゃとなる。 そこに仄かな恐怖があり、解釈を施すと立派な怪談に仕上がってしまう。 怖さの内容は何でも良く、「罪人が運ばれる歌」でも「子どもが売られる」でも良い。 大事なのは仄かな怖さであり、具体的な恐怖ではない。 しかし、どうして怖い内容のものを童謡にする必要があるのだろうか? この件に関してはいろいろな書物が出ているので研究結果としての解釈はそちらにあずけるが、個人的に思うのは、わらべうたのほとんどによくわからない言葉が出てくることがその原因になっているのではないかと考えている。 例えば先に述べた「靴隠しの歌」に出てくる「チュッチュクまんじゅう」って何?と思うし、歌全体もまあまあなんのこっちゃである。 そもそもわらべうたは「歌」なので、まずはリズムがあって、そのあとに歌詞を付けることが多いので、語感だけで言葉を作るからこんなことが起こるのだろう。 知らない歌の鼻歌みたいなものだろうか。 語感だけで歌詞を付けるため、ちゅうれんぼうだのチュッチュクだの、オノマトペ的な言葉が登場する。 そして意味の不明瞭さが聴く人の想像力を活発にさせ、何か別の意味に結びつけようとする。 その不思議な呪文のような言葉自体に意味を見出すと、必然的にインパクトのある物語を捏造する。 あとは、歌自体を捏造するケースもあるだろう。 わらべうたや童謡はそもそも民話をもとにして作っているものが多く、民話の大半は口承伝播なので、地域で話しが変わることはよくあることだ。 これは伝言ゲームを思い浮かべればすんなりと理解できるだろうが、要は北国でできた剣士の物語が、南の国ではターザンの話にすり替わっているようなもので、所変わればなんとやらというやつである。 そういう意味で童謡かごめかごめの「夜明けの晩」や「鶴と亀が滑った」「後ろの正面」は何となく捏造臭い感じがしないでもない。 不気味な歌に聞こえるが実は「後ろの正面」は「後ろと正面」「夜明けの晩」が「夜明けの番」だったりすると、ただの人あての遊びにも聞こえなくはない。 ここからは本当に想像だけの話なのだが、例えば人が多く集まる酒の場なんかで話をする時に、こんな話があったと少し話を盛ったりする。 次に聞いた人も、次の人に話す時に話を盛り、より物語のインパクトと精度が上がる。 こうして徐々にクオリティが高くなり、話が仕上がってくる。 そもそもリアリティがあってインパクトのある話と言えば、オバケや人の不幸話が一番で、それ以外の要素のものは淘汰され、話が奇抜に固まりはじめる。 やがて作られたいくつかの物語がひとり歩きし、終に子どもに聞かせる童話やわらべ歌などに紛れていく。 このロジックで童話や童謡が作られたのではないだろうか? 例えばこういう歌がある。 「ずいずいずっころばし ゴマ味噌ずい 茶壷に追われてどっぴんしゃん 抜けたらどんどこしょ」 この歌はほとんどの人が知っているであろう「ずいずいずっころばし」の歌だが、この歌の解釈は、茶壷道中とかいう奴がやって来て、こいつがあまりよろしくないので、みんなが戸をぴしゃんと閉めてやり過ごした、というものが有名な様だが、いかにもわらべ歌っぽいこの歌は、最初はこんなにしっかりした歌ではなかったのではないだろうか。 多分解釈のとおりの出来事があったはあったのだろうが、これを歌にする前に別の歌があり、時間の経過でここまでしっかりとした物語感がある歌に育ったのではないだろうか。 この歌も、最初のインスピレーションの段階で語感がもう少し、恐怖を連想させるものであれば、多分違う解釈の歌になっていたのではないだろうか? いずれにしても茶壷がなんぼのものかは知らないが、少なくと「コマ味噌ずい」はこの茶壷道中の話しとは関係ないだろう。 ずいずいずっころばし何かは「ジブラルダル海峡」バリに行ってみるとまあまあ気持ちがいい言葉なので、当時の子どもはただ響きの楽しさだけで、喜んでこの歌を歌ったのだろう。 怖い内容だろうが悲惨な物語だろうが、子どもにとっては関係ないので、できれば怖がらずにどんどん歌ってこれからも童謡を残していって欲しいものである。
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