インポテンス  ストライキ

ストライキとロックアウト

(2012年4月10日更新)

  • 長くサラリーマンをやっていると、実際にあるのだろうかと思う事が二つある。 一つは残業手当の満額支給と、ストライキである。 僕は前職が酒の卸し会社の営業兼倉庫番で、現職が民間教育関連の事務方と、余り幅の広い職種ではないので、他の会社がどうだとかの意見はあまり持ち合わせてはいないのだが、この二つについては、経験上ついぞ見たことがない。 残業手当の支給は、大抵は何十時間後から計上されます的なのが多く、このへんは法的にどうなのかは知らないが、多分何となくうまく出来ている仕組みがあるのだろう。 ストライキについては、完全に都市伝説と化している。 ストライキについては、Wikiって見ると、労働者の争議行為の一種で、争議権の行使として雇用側の行動に抗議する行為とある。 労働者の権利としては、公民の時間に習った労働三権(団結権・団体交渉権・団体行動権)を思い出すが、団体行動権に属するのだろうか? 何だか安保闘争を戦い抜いた、反体制派の匂いがして、今の時代には受け入れられないのだろう。 最近の若者(僕を含めて?)は、余り戦いを好まないこともあるので、団体でストを起こすなどは思いにも及ばないのだろう。 そもそも最近の傾向として、世代間隔絶なるものが起きている。 20代の若者は、その上の先輩との接点を持ちたがらず、例えばご飯に行っても、年上の人と無理して話すこともせず、近しい年の人同士で集まって話すのが多いそうだ。 そもそもご飯を食べに行っても、同世代間でもお互いがメールをいじったりして、話もろくすっぽしないのだから、別世代の人間が話など弾むはずもない。 僕の時代はこういう人たちの事を新人類などと呼んで蔑視していたようであるが、いつの時代も年を取ると若い世代には相手にされなくなって、逆に若者蔑視に向かうのはよくあることなのでそこは気にしなくてもいいのだが、みんなで酒を飲みながらメールに熱中する人ははたで見ていてもどこか薄気味が悪い。 できれば酒を飲んだときくらいは、気を大きくして、大言壮語を吐いて欲しいものである。 少し話が逸れたがストライキについては、そもそも団体での行動が不可欠なので、労働組合と言うものの存在が必要になる。 アメリカ式の合理主義と個人主義が日本中を駆け巡る昨今で、労働組合と言うものは少し陳腐な響きもあるのだが、保険制度や賞与、退職金などの制度がまだ惰弱で、労働者の唯一の権利が退職することしかなかった時代には、この組合というものは意味を成していた。 昨今の日本の状況は大半が沈みかけの船であり、その船に対して船の水をかき出さない乗組員ばかりでは、船は沈没するだけである。 労働組合も経営者に歩み寄り、相互協力が必要になっている。 ストはそういう意味では、自らの首も絞めかねない抗議方法となり、そこまでのリスクを背負うのならば、いっそのこと辞めて次の会社に行けばいいや位の考えの人が、多くなっているのもストライキが全く見かけなくなった理由かもしれない。 要は自分の会社を良くしていこうというような愛社精神がなくなっている、一つの表れではないだろうか。 ストライキは何も会社の中だけの話ではない。 統治者の政治への抵抗にストライキをするケースもあり、ハンガーストライキという非暴力抵抗運動の一つとして、飢餓を賭けて訴えを起こすというやり方もあるそうである。 要は自らの死を賭けて、間違いを訴えるというストである。 このような行為自体も最近はめっきり聞くことは無くなった。 ここからは完全に推測だが、物が豊かになり、どんどん人間の労働の質が変わってきている今、人々は争いを避ける傾向にあり、不満があれば逃げ出すか、または耐える人が増えてきているのではないだろうか? 戦いなれた雇用者は、ストに対しロックアウトという手段を使い、施設を閉鎖するまたは賃金を支払わないなどの手段を講じる。 労働者は団結力もなく抵抗力もない。 しかし不満があればすぐに辞めてしまう。 個人主義や成果主義などはとても耳障りは良いのだが、社員一人ひとりが、世代間の格差も関係なく団結して一つの事に取り組み、そしてそれがとりわけ人の為になることであれば、僕たちはもっと働けるのではないだろうかと思う。 ストや争議を避ける傾向にあるのは、言い換えれば団結して物事に当たることへの拒否にも繋がる。 一つのモノに向かって団結して進んでいくことに長けた日本人が、どういうわけか個人主義に占領され、アイデンティティを失いつつあるのが、ストライキが都市伝説化した理由なのではないだろうか?
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