セキセイインコ  コギト

我思うゆえに我在り

(2012年1月27日更新)

  • 京都は東山の麓、南は南禅寺から永観堂の北東に位置する若王子神社あたりからはじまり、北は銀閣寺に向かう疏水に沿った小径を哲学の道と言う。 京都学派の哲学者西田幾多郎の命名である。 哲学の道は西田の散歩道として好んでこの道を散策したことからこの名前が名付けられたという。 さぞ厳かで、深深とした小径なのかしらんと、訪れると大変な目に合ってしまう。 道が狭いうえに観光客がのべつくまなく訪れるため、物思いに耽ることなど到底出来そうにない。 僕はここを3度ほど訪れているが、天気のよくない日に歩いた時が一番それらしく感じられ、趣を感じることができた。 西田幾多郎と言えば禅の無の境地を哲学的に論理化した思想に基づく哲学体系を唱え、西田哲学などとその独創的な固有の功績を残した人である。 哲学の道にも彼の残した歌の碑文がある。 「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり」 この言葉は京都の街並みとマッチして含蓄のある佇まいを見せる。 哲学と言われると少し難しい感じがするが、要するに物事の根源的な理由を知ろうとする学問であり、大義を取ればあらゆる学問は哲学に由来している。 一つの事象についてその性質や定義を論じることが哲学であり、その対象はなんでも構わない。 僕が女性に持てない理由を考えることも、何故宇宙ができたのかを考えることも、同じく哲学できるわけである。 それがいかにくだらない内容であっても、考えることこそが哲学となるわけである。 まさしくデカルト的コギト「我思うゆえに我在り」である。 しかし最近は哲学もすっかり死語で、特に考えない若者が増えているらしい。 会社の人事担当や研修担当からもそんな話をよく聞くが、本当なんだろうかと思っていると、ある新入社員が、入社式に母親に引率されてやってきたり、上司宛に電話をかけてきて接し方を注意してきたりというようなことがあるそうだ。 本来ならば子どもがそんな親の行動を恥ずかしく思うものだが、過干渉に慣れているのか、特に親を止めたりすることもないらしい。 こんな環境で育った子は、確かに何も考えずに育つだろうなあとは思う。 新聞か何かで読んだのだが、粘菌という生物なのか植物なのかよくわからない生物を研究する日本人科学者が、ユニークな研究に送られるイグ・ノーベル賞という賞を受賞した。 粘菌と言えば夏目漱石とも同級生だった南方熊楠を思い出すのだが、この科学者が研究したのは、粘菌が迷路を解くのが早く、また最短のルートを導き出すというものだそうだ。 聞くとなんだそりゃと思うのだが、これを日本の地図に当てはめてやると、粘菌がその最適な交通網を導き出すというので、これまたホンマでっかな訳である。 培地での実験なので、地形の問題もあるので実際にその経路が最適なのかは、読んだ記事ではよくわからないのだが、粘菌のような訳の分からないものでさえ、考えて行動をしているのが分かる。 人間は考える葦だそうなので、粘菌よりも考えないようでは、生物の頂点から降りる日も近いのかもしれない。
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