量産型ザク  口寄せ

オルフェウスの竪琴と妻エウリュデュケ

(2012年1月25日更新)

  • 口寄せというと瞬間的にイタコを思い浮かべる。 白髪のおバアさん何かが、念仏を唱えたかと思うと、えいやあとか言いながら飛び上がり、急に声色を使ったりなんかして 「ここはどこだ。お前は誰だ?ん?健二か。大きくなったなあ。」 なんてことを言いながら、白こい顔をして死んだ人間になりすますあれである。 今やイタコはただの1回3千円くらいのショーのようになっているようだが起源はずっと古く、太古の時代には精霊的なものが巫女の体を借り、神の言葉を告げるというようなものだったようだ。 つまり肉体としての入れ物に、神が体を借りて言葉を発するというシャーマンニズムで、そこから派生して、死者の魂を体に移すというイタコが生まれたようだ。 輪廻転生を信じる仏教世界の死生観ではいかにもな感じがする。 この死生観は古代ギリシャでも見られる。 例えばギリシャ神話のオルフェウスの竪琴と妻エウリュデュケの話が有名である。 オルフェウスの妻エウリディケは、ある日蛇にかまれて死んでしまう。 オルフェウスは妻がいないことに絶望し、妻を取り戻しに冥界に向かう。 冥界では三つ首のケルベロスが行く手を阻むが、父であるアポロンに教わった竪琴の音色で、ケルベロスを服従させ、幾多の難関を越えて冥界の王であるハデスに妻を生き返らせて貰うよう懇願する。 ハデスは条件として地上に戻るまで、後ろを振り返ってはいけない。 もしも失敗したら、エウリュデュケはもう地上には戻れないと告げ、オルフェウスは約束する。 しかし、ハデスへの疑念から結局振り返ってしまい、エウリュデュケは冥界に連れ戻されてしまう。 この有名な話の中に見える古代ギリシャ人の死生観は、人は死んだら魂は黄泉の国に行き、現世とは異なる神の世界に入るということである。 魂は消滅せずに黄泉の世界の中で生き続けるのである。 死者の復活という概念が生まれるのは、魂と受け皿である肉体という考え方に基づいているため、ここから推測されるのは、西洋でも同じく神の言葉を借りて話す口寄せはあったのではないかということである。 因みに、このオルフェウスの竪琴は、日本の古事記にもよく似た話があって、天地を創造したイザナギとイザナミ夫婦が同じようにイザナミが死にイザナギがイザナミの魂を蘇らせる話がある。 愛する人を失った悲しみのためその魂を蘇らせたいと願う物語は、時代を問わず全世界共通ということであろうか。 一方聖書(新訳)でこのような死生観が見られるのかというと、どちらかというと魂というものを否定している節があり、ギリシャや日本と同じような死生観は見ることができないようだ。 そもそも聖書という宗教書には死語の世界なる考え方が少なく、死んで肉体が滅んだあとは余り描かれていないように感じる。 だからこそキリストはゴルゴダで処刑された3日後に復活し、永遠の命=神の子となったのである。 寧ろ神の世界に人間が立ち入るということの畏れ多さを説くものが多く、神が絶対的な力を持っていて、人間を支配している構図が見て取れるのである。 そのためキリスト世界やユダヤ教徒では、口寄せという行為は、人間に神が乗り移るという考え方のため、当然のように畏れ多い行為なので禁止しているということである。 かわりに神と人を結ぶものとして、預言者というあらかじめ神が決めた事を話す人物を介して伝えられる。 聖書の死生観は、生は神への信仰にあり、人としての気高さを求める暮らしにある。 このような死生観からわかるように、死は消滅であり死の後は無であるという考えを持つキリスト世界と、人は死ぬことで肉体を失うが、魂は残りいつまでも消滅しないという、日本とのはっきりとした死生観の違いを見ることができる。 イタコは、死というものを避け、魂の世界を作り出した日本人の死生観の産物で、科学が魂を否定した現代社会では少し滑稽に映るのかもしれない。 しかし、霊つまりは祖先と繋がって今があると考える、死者をも自らの生の一部であると認識する、日本民族の精神世界と、礼節や義を重んじる民族性を感じる。 イタコは日本の死生観の顕現として文化的に保護し、くれぐれも「ケネディ大統領に会いたい」などと無理難題を突きつけて、カタコトの英語を話させて喜んだりしてはいけないなあと思った。
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