ザ・スペンサー・デイビス・グループ「Gimme Some Lovin」

毎日愛しておくれくれ

(2016年01月07日更新)

  • サウスウェールズにあるパブにその声は響き渡っていた。 刹那にかすれる声と、破壊力のあるシャウトが、客を酒以上に酔わせた。 フォークやブルースを歌い上げる歌声はまさに黒人のそれであったが、歌い手を見てスペンサーは驚愕する。 ギターを抱え、あどけなさが残る白人少年が、あの素晴らしい声の持ち主だった。 同時に音楽性の高さや、演奏の上手さなど、まさにスターの片りんを感じて、スペンサーは彼の音楽に圧倒されていた。 わずか十代だったスティーブ・ウィンウッドは演奏から、作曲までをこなす天才だった。 スペンサーはすぐさま彼にほれ込み、バンドを組むことを提案すると、スティーブは「もちろんいいよ!でも僕は運転免許を持ってないんだ」と茶目っ気たっぷりの、おどけた返事をして見せた。 1948年5月12日。 スティーヴ・ローレンス・ウィンウッドは、ウェスト・ミッドランズ地方バーミンガム郊外のハンズワースで誕生した。 父は工場で働く傍らで、ミュージシャンとしてもバンド活動をしていた。 そんな音楽好きの父親の影響で楽器に囲まれていたスティーブは4歳でピアノを弾き始め、7歳にはギターのリフを奏でる。 兄で同じバンドのメンバーとしても活躍するマフに音楽の手ほどきをすることも、しょっちゅうだった。 そんな環境のおかげか、16歳にはすでに作曲を手掛けた自分の音楽を、パブで演奏をしていた。 やがてザ・スペンサー・デイビス・グループを率いることになるスペンサー・デイヴィスと出会い、メジャーになる。 デビューはジョン・リー・フッカーの「Dimples」をリリースし、翌年には「キープ・オン・ランニング」でUKチャートを賑わせる。 彼のち密な音楽は、その豊富な音楽的センスに裏打ちされ、そのストイックな姿は多くのファンをしびれさせた。 「あの頃は本当に音楽だけにしか興味がなかった。楽器の演奏がとにかく楽しくて、それさえできれば良かった。 面倒なことはほかのメンバーが全てやってくれたしね」と彼が語るように、音楽が彼の一番の興味だった。 スペンサー・デイヴィスはそんな彼のサポートに回り、自分の名前が冠したグループはすっかりスティーブのものとなってしまう。 スペンサーはまだ若い彼の才能にほれ込み、自由に音楽を作る場を与えようとする。 その才能はカバー曲で構成された彼らの音楽から、オリジナル制作に移り翌年には2枚のアルバムをリリースしている。 グループのオリジナル曲 「Gimme Some Lovin」 と「I’m A Man」を発表し、ヒットする。 1966年12月には、イギリスのNME誌の人気投票でスティーヴは最優秀新人シンガーに、スペンサー・デイヴィス・グループは最優秀新グループに選出され、名実ともに彼らは音楽シーンを登りつめる。 しかし、その高みがやがて彼の所属していたザ・スペンサー・デイビス・グループを退屈なものにさせ、翌年の1967年4月にウィンウッド兄弟はグループ脱退を表明することになる。 1967年初頭に「I’m A Man」の曲つくりに参加したジム・キャバルディとクリス・ウッドらとトラフィックを結成すると、練り込んだ音楽を世に送り出していく。 その後のスティーブは、大型バンドを結成し、ロック史に名前を残すことになる。 一方でスティーブが抜けたバンドは急速に活動の幅を狭められるが、スペンサーはジャズやライブ活動に居場所を見出していく。 So glad we made it そしておれは、おれたちがそうなった事が嬉しいんだ So glad we made it You gotta おれたちがそうなった事が嬉しいんだ Gimme some lovin' (Gimme, gimme some lovin') 愛してくれなくちゃ Gimme some lovin' (Gimme, gimme some lovin') 愛しておくれ Gimme some lovin', everyday 毎日愛しておくれ スペンサー・デイヴィスはスティーブ・ウィンウッドの才能を見出し、3年間の短い活動期間ではあったが、世に素晴らしい名曲を残した。 スペンサーはスティーブ脱退後もバンドを続けている。 続けることが音楽を毎日愛した男の命の証なのかもしれない。
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