ジミ・ヘンドリックス 「Purple Haze」

彼と会うことができなかった僕らの手によって、今もどこかでジミの曲がかかっているだろう

(2012年06月15日更新)

  • ジミ・ヘンドリックス。1942年11月27日アメリカ ワシントン州シアトル生まれ。 この名前を聞くだけで、リズムが体に刻まれ、なんだか熱い気持ちがよみがえってくる。 本名ジェイムス・マーシャル・ヘンドリックス。 彼の作った曲は、今もギターの強烈な旋律を奏で続けている。 この日本のどこかで。 ジミは白人の多い地域の中流家庭の家に生まれた。 父は風景画家で、家庭は比較的な裕福だった。 16歳で学校を卒業し軍隊に入りパラシュート舞台に配属されるが、26回目のパラシュートによる降下でケガを負い、除隊することになる。 仕方なく10歳から弾いているギターを持って、R&Bのバックバンドとして働き口を見つける。 ジミの腕前は軍隊時代に習得した技を披露するだけではなく、荒削りだが新しいものに向かっていく意欲があり、目に見えて上達をしていく。 彼はどこか集中すると、周りが見えなくなることがあり、ギターにのめり込むと一日中弾いているということもあった。 やがて、毎日のバックバンドとしての退屈な日々から抜け出し、もっと冒険的な音楽を演ってみたい、と言う気持ちが強くなっていく。 そんな彼の才能を見出したのは、元アニマルズのベーシストであるチャス・チャンドラーだった。 そのころのジミはロック系コーヒーハウスに自らのバンドと共に出演していた。 チャスは彼にマネージャーになりたいと申し出、イギリス行きを勧める。 当時のイギリスでは、ジミの様な黒人のギターリストが、白人のギターリストとヒットチャートで肩を並べることが珍しくなく、イギリスの方がジミは正当に評価されると踏んだのである。 ジミは渋々承諾するが、チャスの読み通り、ジミはロンドンでその知名度を着実に上げていき、最初のシングル「ヘイ・ジョー」は順調に全英チャートに登場した。 やがてジミ・ヘンドリックスは1967年のモンタレー・ポップ・フェスティバルにて、アメリカで劇的なデビューを飾る。 ジミにとってはイギリスでの下積みを経験し、言わば凱旋ライブとしてこのステージに立つのだが、その鮮烈なデビューは多くの人々の印象に残った。 ジミはやや緊張の趣で「ライク・ア・ローリングストーン」をスローテンポで弾き始め、「ワイルド・シング」でギターに馬乗りになると、観客は熱狂した。 そして最後はギターに火を付け燃やし始める。 前のステージで、「ザ・フー」のピート・タウンゼントがギターを壊すパフォーマンスをしているため、それに変わる演出として、ジミは何かの儀式のように、ライターオイルでギターを燃やし、壊し、ステージを去る。 アンコールは必要はなかった。 ジミのパフォーマンスは、大いに彼の知名度アップに貢献したが、同時に彼のギタリストとしてのキャリアの足枷になる。 ジミはこのパフォーマンス以降、大道芸人のように、パフォーマンスを期待されるようになる。 それは彼の表面的な部分であり、ジミにとっての実は、その曲の良さである。 しかし、ジミのバンド「ジミ ヘンドリックス エクスペリアンス」のアルバム「アー ユー エクスペリエンスト」は商業的にも成功し、収録されたシングルは売れ、名実ともに人気ミュージシャンとなる。 しかし、その人気が彼に言わせるところの”ポップスの奴隷”になったということであり、その後も「ボールド・アズ・ラブ」「エレクトリックレディランド」とレコードは売れ続けるが、やがてコンサートやレコーディングからも遠ざかり、気楽なジャムセッションなどを楽しむようになっていく。 ジミヘンドリックスの曲を聞くとその荒削りさと、他に類を見ない旋律に気づかされる。 ヒット曲だらけのファーストアルバムは、だれも文句のつけようのない出来ばかりで、陳腐な言葉だが、ただただ、格好いい。 しかし、世に言うキャッチーさや、ライブパフォーマンスから来る格好良さではなく、真にギターヒーローとしての、または楽曲の素晴らしさとして、格好が良いのである。 「パープル・ヘイズ」の独特のリフは、体の内面からあふれる何かを感じ、今聞いても決して色あせてはいない。 3枚目の「エレクトリック・レディランド」では彼の音楽性が凝縮され、個人的に14曲目「焼け落ちた家」と15曲目「ウォッチタワー」のギター音がとても好きで、「焼け落ちた家」のエフェクト処理がとても心地よい。 15曲目の「ウォッチタワー」は、ボブ・デュランの曲で、ジミが歌うきっかけになったのも、ボブの影響だそうだ。 こんなに下手でも歌を歌えると思ったらしい。 ジミの意欲ある人柄を表す逸話である。 その後もジミは気の赴くままに演奏を続ける。 バンドを変え、自らのスタジオでレコーディングやらジャムセッションやらを行い過ごす。 ジミはこれからの音楽活動の計画に、まるでデビュー当時に戻ったような気分になっていた。 しかし、時はそんな孤高のギターリストに対し、急な死を与える。 1970年9月18日。ジミは恋人モニカの家で意識不明になり、そのまま亡くなってしまう。 バハビツールによる過剰摂取によるもので、25歳の早すぎる死だった。 ジミは生前、自分の音楽を、「ソファーに腰を置いてゆっくり聞いて欲しい」と言っていた。 彼のギターの音色は、薬によって奪われたが、彼と会うことができなかった僕らの手によって、今もどこかでジミの曲がかかっているだろう。 それがジミの才能の結実であり、彼が生まれた理由だったのかもしれない。
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