二・二六事件2

1936年2月27日

(2015年01月26日更新)

  • さて反乱部隊は26日中に、陸軍省と参謀本部、東京朝日新聞を襲撃し、永田町、霞ヶ関、赤坂、三宅坂など、政治の中枢箇所を占拠する。 宮城を守備するかのようなかたちで占拠する反乱部隊は、自らが官軍として悠々としていただろう。 なにせ宮城は取れなかったまでも、現状はそこまで悪くない。 午後三時には、天皇の耳に決起の意図が伝わったという陸軍大臣告示も聞いていたので、「我が事成せり」と決起部隊の士気はますます上がる。 この辺は五社英雄監督の映画「226」でもよく描かれていて、この日の軍内部のゴタゴタと、青年将校の緊迫した状況が見て取ることができる。 丹波哲郎さん扮する真崎大将も、青年将校の意向をくみする発言をするが、次が動かず苛立つ青年将校たち。 詰問する将校たちに対し、沙汰を待てとしか言わず、曖昧に場を誤魔化す上層部。 しかし、実際は決起趣意書に対して、天皇は鎮圧せよの命を下しているわけなので、耳に入るどころか、自分たちを反乱軍として扱っていたわけである。 そんなゴタゴタの中、翌日27日を迎える。 事件以降すぐに戒厳令が敷かれ、民間への情報は基本的にはシャットアウトされたので、何が起きているのかは俄かに知らされてはいなかった。 とは言え、実際はそこまで厳しい警備も無く、反乱軍が宿舎として使った山王ホテルや旅館幸楽にも、27日までは近づくことはできたようだ。 後に兵が宿舎として使った山王ホテルの従業員も、反乱軍の様子は、真面目で極めて穏やかだったと述懐しているので、程よい緊張こそあれ、そこまでピリピリした感じでもなかったのかもれない。 因みにこのころの報道はどうだったのかというと、26日には東京都大阪の証券取引所が臨時休業になったという報道が出された程度で、夜になってやっと一般市民にラジオ放送で告げられたようである。 戒厳令に関しては27日2時50分に布告され、選挙されていた永田町と赤坂の市民を一時的に避難させている。 なかなかゆっくりとしたクーデターへの対処と言える。 おそらくは、事が陸軍内部の問題であることと、陸軍上層部の中に何名か状況を見守っているものがいたからではないかと考えられ、結局は天皇の考え次第だったというところなのかもしれない。 さて、27日には石原莞爾大佐が戒厳参謀に任命され、いよいよ反乱部隊の鎮圧の動きが強まる。 石原大佐は、あの満州事変を企んだ人である。 青年将校と顔を合わせた時も、「直ちにこんなことは(クーデターは)止めよ」と叱責しているくらいなので、そもそもが武力による排除については、反対の考え方なのだろう。 一説には石原は皇道派の重鎮で、決起の青年将校の信頼も厚く、クーデター後は首相に担ぐ予定だった真崎甚三郎と仲が悪かったことも遠因としてあったのかもしれない。 そもそも石原は統制派として見られてはいたが、皇道派を目の敵にしているということでもなかったようだ。 いずれにしても石原は天皇の意向を受け、反乱軍を軍の指揮下において、収めようと画策する。 一方天皇の怒りは収まるどころか日を追ってより高まり、侍従武官長本庄繁をこの日だけで13回も呼びつけて、「鎮圧はまだか」と問うている。 天皇の意志が硬いと知った荒木貞夫大将や真崎大将など皇道派要人も、事態の収束のため反乱軍に原隊に復帰するよう促し始める。 当時の天皇陛下の権力の凄さがよくわかる一コマである。 軍部は決して青年将校の気持ちがわからなくは無い。 しかし、天皇の信頼する重臣を殺害したことで、今回は陛下もお許しにならない。 そんな機運を感じて手を打つべき所だが、青年将校らが逆賊の汚名を着ることになってしまっては忍びない。 結局27日は何か大きな動きがあるわけでもなく、ああでもないこうでもないの議論の上に、ただ時間だけが過ぎていく。 彼らがもし、年老いた要人を殺さなければ、天皇もここまで怒らずに、ひょっとすたら黙殺されていたかもしれない。 彼らの失敗は性急に時代を進めようとしたがために、本当に大切な考えを置いて、暴力に頼ってしまったことにあるのかもしれない。 政治をやりたければ軍服を脱いでやれば良いのであって、軍部が政治を掌握してしまったら、いったい誰が歯止めをかけるというのだろうか。 その結論は、翌日の大元帥命令ではっきりと出されることになる。 出典・資料 ウィキペディア 「二・二六事件」 半藤一利 「昭和市」 平凡社 映画「226」松竹富士配給 監督:五社英雄
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