二・二六事件への布石2

北一輝の思想

(2015年01月21日更新)

  • 前回のお話が天皇機関説と国体明徴という、当時の天皇という地位をどう扱うのか?という思想的なお話しだった。 今回は、二・二六事件に影響を与えたとされる、もう一つの思想について話を進めていく。 二・二六事件は、軍部の下士官が起こしたクーデターである。 しかし、このクーデターの首謀者は、ある人物の思想に影響を受け、このクーデターを起こしたと言われている。 その人物とは北一輝という社会主義思想の持ち主で、「日本改造法案大綱」という著の中で書いた思想が、当時の軍部、とりわけ皇道派の下級士官に影響を与えたと言われている。 北一輝という人物はあまり学校でも熱心に教えられなかったが、どういう思想の持ち主だったのか? 北輝次(後に輝二郎、一輝に改名)は佐渡で酒造業を営む旧家の長男に生まれる。 佐渡にいる時代から多くの論文を記し、既に論客として名前を上げていた。 学業は優秀だったようだが、旧制佐渡中学を家庭の事情もあり退学すると上京し、幸徳秋水や堺利彦などの社会主義思想に傾倒する。 しかし北の主張が、世の社会主義者と一線を画していたのが、帝国主義を否定せず、また国家を前提に社会主義的な思想を作り上げていく点にあった。 この思想が一つの形となるのが、明治39年に刊行する「国体論及び純正社会主義」という自費出版本だった。 大日本帝国憲法に書かれた天皇制に対しての批判を行ったこの本は、わずか5日で発禁処分となる。 この本の指摘するところは、神としての天皇と、人間としての内政の最高責任者としての天皇は相反するもので、この二元性こそが矛盾を抱えているとしたもので、ものすごく簡単に言うと、どこかの独裁国家のように、いくらトップがすごいので道徳的規範も含めてみんなで尊敬しようと宣っても、経済ががたがたで、貧困者があふれるような失政続きだと、皆が俄かについてはいかない。 万能であるはずの神様が、そんな間違いを起こすわけがないので、これでは言っていることが矛盾するではないか、というようなことを主張している。(ちょっと砕きすぎましたが、概ねそんなイメージでいいと思います。) なかなか尤もな意見だが、当時としてはびっくり仰天の思想なので、以降北はしっかりと警察にマークされる存在となってしまう。 大作を発禁処分となり、失意のうちに宮崎滔天という、辛亥革命を支えた革命家に請われ、孫文の中国同盟会に入り、宋教仁などのような中国人革命家と交流を行いながら、活動拠点を中国に置くようになる。 中国では辛亥革命にも参加し、その経験を「支那革命外史」という本に書き記す。 この本をきっかけに五・一五事件でも出てきましたが、昭和維新に加担した大川周明の知るところとなり、日本での活動を説得される。 北の思想の特徴は天皇制の矛盾と、中国で経験した民主化のための革命運動にある。 天皇制を真っ向から否定せず、天皇の持つ大権を利用し、国家改造を目指すべく戒厳令を施行し、政治権力を三年間凍結させて、この政治的空白期に革命を行うということを主張する。 この大権の発動は憲法に基づいたものであり、この革命こそが貧しい農村の現状を救うことになる。 要は何でもかんでもぶっ壊してしまえ、という考え方ではないんですね。 同時に北の思想の中で垣間見えるのは、権力を有するものは必ず時の政治権力に寄り添って腐敗するので、腐敗していない下級士官が先導して革命を行わなければならないとも主張する。 多分中国での革命で、この腐敗の構図を嫌というほど見てきたのかもしれない。 こういった思想を北は「日本改造法案大綱」という論文の中で述べていく。 そしてこの思想は、ある派に受け入れられる。 それが先に政治的政略に敗れ、軍部の中枢から一掃されてしまった、皇道派の青年将校たちが学び、影響を受けていく。 北一輝の思想というのは、そのままズバリ二・二六事件のイデオロギーとなる。 要は彼が描いた革命思想は、弱いものが苦しむ当時の社会に対し、変えていかなければならないという思いを持った青年将校や、下士官に熱烈に受け入れられたわけである。 財閥による資本の集中や、家族制度など、不平等な社会に対し、明快な反証を北は投げかけており、軍部が国民の窮状に答えなければならない、という考えと符合していく。 こうして着々と軍部主導の世の中にしていかなければならないという考えが根をはり始め、時代は昭和史最大の革命未遂事件に向かっていく。 出典・資料 ウィキペディア 「北一輝」 松本健一 「北一輝論」 講談社学術文庫
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