二・二六事件への布石1

天皇機関説と国体明徴(こくたいめいちょう)

(2015年01月19日更新)

  • 前回皇道派と統制派について書いていったが、以降は皇道派の逆襲とも言える、二・二六事件へと話を進めていく。 二・二六事件は、日本があの戦争に向かう、大変大きなきっかけを作った事件だが、脱線が得意なこのサイトなので、二つの考えについて書いていこうと思う。 まず一つ目として、今回は天皇機関説と国体明徴について説明していく。 学校では美濃部達吉という学者が唱えた天皇機関説が国会で問題となった、くらいにしか登場しないのだが、この問題は今後の国体の有り様を左右する意味でも、大変重要な事件と言える。 この説については原文を読んでいないので、半藤一利さんの本に詳しいので少しだけ引用すると、そもそも天皇という地位は、 ①天皇は絶対的な権力を持つがそれを行使しない、国家の上に乗っただけの機関である ②天皇が持つ権威を政府が立憲的に運営する ③天皇は絶対であり、その絶対的な力を持って、国家を運営していく という3つが考えられる。 ②が美濃部が提唱した考え方で、③が次の項で後で書く北一輝という人が提唱した考え方である。 さて、この考え方が何故二・二六事件の布石となるかというと、天皇機関説は、そもそも政党政治を重視した考え方である。 しかし、この政党政治自体が軍国主義の台頭によって否定をされていく。 1935年(昭和10年)菊池武夫という貴族院議員が、美濃部の書いた学説を議会で槍玉に上げる。 美濃部は先ほどの②のような政府が立憲的に政治を行うことを唱えているので、軍部としては、これから国家総動員で中国を駆逐し、世界を相手にしていこうという時に、船を作るのにも予算が下りないような政府の存在は邪魔でしかない。 そもそも天皇の地位は、陸海軍を統率する大元帥閣下であると同時に、内政のトップでもある。 しかし、天皇自身は内閣の決めたことに対し、ノーとは言わず、またその取り巻きも「あーだこうだ」と軍部の反対をする。 この取り巻きが所謂「君側の奸」であり、こうなってしまうのは、大元帥閣下である天皇を政府の機関として見ていることに、問題があるのではないか、という考えが起こるわけである。 なかなかに直線的な考えだが、当時の日本国内は先にも書いたが、冷害の影響で、農村部は貧しさの中で苦しんでいた。 こういった背景もあって、より強い力を持つ何かを国民が求めていたのも確かである。 結局美濃部は不敬罪という罪で取り調べを受け、書は発禁処分となり、貴族院議員を辞職することになる。 もう一つ、この時期に出てきた考え方のもう一つに、この国はどういう国なのかを考えようという動きが出る。 国体明徴と呼ばれるこの動きは、いろんな議論がなされ、最終的には政府見解として、当時の岡田啓介内閣から国体明徴声明なるものが出される。 これは簡単に言うと、この国は神代の昔から、万世一系の天皇陛下が治めるよう定められた、神の国である。 その決められたことに対し、天皇は統治権を行使する機関であるとは、なんというけしからんことをいうのだ、ということである。 当然乍らこの声明には軍部も大喜びで、以降天皇の力を弱めようとする考え自体が、不敬であるということになっていく。 この政府の号令も相まって、天皇機関説を唱える者は、国体に反する考え方であるということになり、天皇機関説に同意していた枢密院議長の一木喜徳郎という人が襲われると、天皇の重臣たちも一気に腰が引けてしまう。 この国体明徴の考え方は、以降の戦争に向かうまでの日本のあり方(国体)を牽引していく。 同時に、日本は天皇を中心とする神国であるという考え方から、検定教科書が変えられ、あらゆる場面で言論の制約が始まっていく。 国が一つにまとまる上で大切なのは、絶対的な力と、それを信じる市民で成り立つ。 それに反する思想は、排除されなければならない。 そんな時代がひたひたと近づいて来たのである。 こうして暗雲立ち込める軍国主義の道に、少しずつ日本は踏み込んでいくことになる。 出典・資料 ウィキペディア 「林銑十郎」 半藤一利 「昭和史」平凡社
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