陸軍内部の争い

皇道派と統制派

(2014年03月11日更新)

  • 血盟団事件から五・一五事件と日本がテロによって、少しづつ右傾化する中で、国民のあいだには国体護持という考えが少しづつ根付き、やがて政権政党だけではなく、ジリジリと文化人やマスコミも軍に屈服し、日本は軍事一色に染められていく。 そんな中、決定打となる軍部のテロが再度起こるわけだが、その前に得意の横道にそれる内容として、今度は軍部内部について触れておこう。 役所広司さん演じる山本五十六を描いた映画の中で、自分たちが長州(今の山口県)出身ではないことを揶揄する場面がある。 軍部創世の明治期は、ご存知のように明治維新で活躍した、薩摩、長州、土佐、肥前出身者が中心で構成されていたが、その後の西南の役で薩摩の肩身が狭くなるにつれて、長州閥が幅をきかせてくる。 軍部といえど人の組織なので、今と同じように派閥みたいなものがあったんだろう。 しかし、当然のように出身地だけで組織の中枢で活躍できる世界などは、不満が出てくる。 「これからは優秀な人間が働けるようにしなければ」 そんな思いで陸軍内部から長野県出身の永田鉄山、高知県出身の小畑敏四郎と言った、長州閥ではないエリート達が改革を訴える。 そもそも若手の旗手として期待されるわけだから優秀で、永田はあの狭き門である陸軍大学校を主席で卒業したエリートで、小畑は作戦課長などについた戦術に長けた秀才で、当時の陸軍大臣だった荒木貞夫によって彼らは参謀本部に席を置くことになる。 ところが両雄相立たずとでも言うのか、思いは同じはずなのに、役職をあげた二人は互いに衝突してしまう。 この二人の衝突こそが「皇道派」と「統制派」と呼ばれる考え方の違いだったわけである。 では、「皇道派」と「統制派」というのはどういう派閥なのか。 流石に会社の派閥とは違い、人付き合いの良い専務派とゴルフ好きの副社長派みたいなどうでも良いものではなく、根本としてこれからの日本の軍事戦略をどうしていくかのビジョンがあった。 専務の方が好きだからとか、副社長の方が将来の見込みがあるとか、一部にはそう言うのもいたのかもしれないが、そんな日和見的な派閥ではなく、二つの派閥には、これからの日本をどうしていくかの深い洞察があった。 てなことを書くと大仰に聞こえるので、わかりやすく言うと、皇道派の小畑は「ソ連」を、統制派の永田は「中国」を目下の敵として想定するというもので、当然乍ら今後の軍事配備や外交上の機微に影響を与えるような内容だった。 またこの二つの考えはどちらもいちいち最もで、永田の目下の的である中国を追い払わずして、強大なソ連と戦うのはもってのほかという意見も、小畑の革命後に少しづつ大きくなっているソ連を今のうちに叩かねば、日本にとっての極東での安定はありえない、という意見も分からなくはない。 どちらも説得力があるので、当然将校たちもそれぞれの考えに基づいて派閥につく。 しかも両者は国を思う真剣さがあるからこその衝突なので、なかなか折り合いもつかない。 その内二人を徴用した荒木陸軍大臣がしびれを切らして二人を地方に飛ばして幕引きをしようとするが、カリスマのある人間の影響はそんな簡単にはなくなりはしない。 口の上手い荒木も斜陽の時を迎え、陸相が荒木から林銑十郎という、満州事変の時に天皇陛下の勅命を受けずに、勝手に朝鮮軍を率いて越境を行ったあの大将に変わる。 林は永田の意向を受け、皇道派の重鎮だった真崎甚三郎教育総監を辞めさせ、統制派の大将である永田を軍務局長として、再び中央に呼び戻してしまう。 当然に小畑のいない皇道派は永田によって一掃されてしまう。 こうして統制派、エリート永田鉄山などの優秀な人間によって、陸軍の方針が中国撃退に傾き、同時に天皇陛下を中心にした皇軍を軸とした、堅固な統制国家として、総力戦で戦争に向かっていくことになる。 出典・資料 ウィキペディア 「林銑十郎」 半藤一利 「昭和史」平凡社
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