リットン調査団

向こうは死に体でこちらは一番

(2013年12月23日更新)

  • さて、満州事変以降、満洲を蹂躙した日本に対し、中華民国の提訴により、国際連盟が日本の満洲での行動の実態調査に乗り出すことになる。 要は日本の行動は自衛によるものだったのか、はたまた侵略なのかを判断しようということである。 調査団団長はイギリスのリットン卿という人で、イギリス領だったインドで総督を務めた人である。 調査団は5名で構成され、昭和7年の1月に結成される。 柳城湖事件が昭和6年の9月なので、実に半年後の結成と、若干遅い気はするが、結成後は満州のみならず日本、中華民国に積極的に視察に向かい、関係者への会見などを行っている。 調査団はそのまま6月まで各所視察を行い、7月19日には日本を離れ、8月より調査報告書作成を開始、10月2日に報告書を提出する。 その間の日本の行動は、先に述べた満州国の建国を影で行い、リットン報告書が出される前の9月には、日本国として満州国を承認なんかもしている。 ここでもマッチョ炸裂である。 要は「もう国として認めちゃったので、ぐだぐだ言いなさんな」的な話にしようとしたわけである。 そんな日本のゴリ押しに比べ、調査団の調査結果は比較的中国・日本双方に配慮したものであった。 調査書の内容をかいつまんでいうと、日本の行為はどっちかというと侵略で、満州国なんててんででたらめだけど、中国が言うように満州事変前に戻すのはもう無理くね? そもそも不毛の地の満洲を良くして中国の人が住み着くようになったのは、日本のおかげでもあるんだし、あんまり抗日っていうのもどうかと思うよね、というものだった。 少しかいつまみすぎたのでちゃんと書くと、基本的には、満州国は日本の影響を受けない自治政府として、中国の主権下において独立するのがよろしいという内容で、日本にとってはそんなに悪くはない報告書であった。 嘘ついてせしめた土地を自分のものにするよう、勝手に権利書をこしらえたようなものなのに、その権利書はあげないけど有効とするわけなので、うまくいけばその権利書を奪えるかもしれないという話しなので、条件は悪くはないだろう。 国際連盟も調査書に基づき、10月に日本の満州国撤退を盛り込む形で理事会議案にあげ、同年11月16日までの撤退を要求する。 しかしこの条件も、日本は撤退という部分において受け入れず、喧々諤々の後、反対の方向に傾く。 結果この採択は日本の反対票を除き、大部分の賛成で可決される。 これに不服なのは陸軍と外務省で、それじゃあ国際連盟脱退だ、という論調になってくる。 世界に背を向けてまで押し通すような内容ではないと思うのですが、その時は盛り上がってたんでしょう。 とはいえ、国際連盟の脱退はそのまま、世界からの孤立を意味する。 流石に慎重に議論は交わされる。 当時の総理大臣は暗殺された犬養さんに変わって斎藤実という海軍大将になっていましたが、比較的穏健派で、戦争論者では無い人物だったそうで、直ぐに「脱退だ!」とはなりませんでしたが、挙国一致内閣ですから、その是非について民主主義的なプロセスを踏まないので、陸軍荒木貞夫大将や外務大臣内田康哉などのマッチョさんと新聞などの過剰な脱退の合唱に盲動された世論に押される形で、国際連盟脱退は国の方針になってしまう。 結局翌昭和8年2月24日に、国連連盟はその総会で42対1の採択で決議してしまう。 因みに反対を投じたのは日本のみで、友好国だったタイだけが棄権をしたそうです。 国際連盟総会での満州問題採択による得票42対1は、語呂合わせで「向こうは死に体でこちらは一番」という言葉が盛んに使われたそうである。 今となってはただの強がりに聞こえるが、こうした世論の盛り上がりも、後の国際連盟脱退の滅びの序章に寄与している 出典・資料 半藤一利「昭和史」平凡社
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