五・一五事件

以降第二次世界大戦終結後まで政党内閣が復活することはなかった

(2013年12月20日更新)

  • 少し話は戻るが、血盟団事件や今回の題目の五・一五事件などの、クーデターが横行する昭和7年より前の昭和6年は、満州事変が起こり、後の日本の運命を左右する政策が取られたのは前の項で書いたとおりである。 満州事変の原因は、満鉄の経営をも脅かす中国の激しい反日運動と、不景気による国内世論の不満にあった。 中国の反日運動はいくつか書いたので、今回は五・一五事件の背景とも言える、農村部の窮状など、国内の経済状況から触れてみる。 昭和恐慌後の日本経済は振るわず、平成6年秋になると北海道・東北地方では冷害による飢饉が発生する。 ただでさえ不景気の世の中に追い打ちのような天災により、農家は大打撃をくらう。 日本の人口の半分は農業従事者の当時の日本においては、食うに困る状況も出始め、東北では女子の人身売買の横行があり、満足にご飯が食べられない子どもを指す「欠食児童」なる言葉も流行語として生まれている。 都市部でも日本橋の高島屋では、10銭ストアなるものが出現し、日用品を販売し人気を博している。 今の100円ショップみたいなものですかね。 要は満州事変の起きた背景には、国内の不景気があって、戦争を起こすと金になるという感覚を、先の大戦で何となく植えつけられた国民が、何となく戦争への期待感みたいなものに結びついて行ったようである。 そんな空気を察知した軍部が、イケイケで満洲を攻めていたが、途中で待ったが入って、一度はシュンとする。 しかし、サザエさんのカツオばりにめげない軍部は、不満の矛先を、政治家や財閥に向けていく。 昭和6年にも桜会と呼ばれる陸軍の急進的組織と大川周明、北一輝ら思想家一派とともにクーデターをしかけ、昭和7年には血盟団事件が起こっている。 不穏な空気は、日本の大多数を占める農村部の窮状に端を成し、軍部が後押しする形になったのだが、いよいよ軍部が中心になってクーデターを起こすことになる。 事件の立案者は海軍中尉の古賀清志と言う人で、血盟団事件でもいっちょかみしていた人物である。 テロのネットワークを利用し、大川周明らから資金を引き出し、茨城の愛郷塾という勤労学校を率いていた、橘孝三郎と言う人も口説き落とし、士官候補生十数名を引き込んでのクーデターだった。 ターゲットは首相犬養毅、元老西園寺公望、内大臣牧野伸顕、侍従長の鈴木貫太郎という、所謂「君側の奸」と呼ばれた人たちである。 計画は総理大臣官邸、内大臣官邸、当時の政権与党の立憲政友会本部を襲撃し、用心を暗殺するというもので、以外の場所では三菱銀行、警視庁、東京電力変電所を襲撃する予定だった。 東京を暗闇にして、警察も抑えてしまおうというのだから、なかなか気合の入ったテロである。 事件は5月15日に起きる。 首相官邸に向かった海軍将校である古賀と同じ海軍中尉だった三上卓率いる車は、夕方5時頃に官邸に到着し、警備の警察官を銃撃すると、犬養首相を探し当て、首相めがけて拳銃の引き金を引くが、あえなく不発。 暗殺の失敗をよそに冷静な犬養に暗殺を制されると、なんと一度は応接に通され、首相の考えなどを聞かされる。 犬養さんもそうですが、昔の政治家は誠に腹が座っておられます。 しかし、その余裕が悪かったのか、裏から侵入した別隊が入ってきて、今度は銃撃されてしまう。 最初は息があり、口調もしっかりしていたようだが、その後夜の10時過ぎには息を引き取った。 「話せば分かる」「問答無用」という、劇的な感じではどうもなかったようである。 もう1班は古賀が率いる班で、内大臣官邸に向かい襲撃。手榴弾を投げ込むが、当の牧野が不在のため、事なきを得る。 その他、警視庁に出向いたものはピストルを乱射して逃走。三菱銀行についても手榴弾を投げ込むも、外壁の損傷程度で終わっている。 立憲政友会本部に向かった海軍の中村義雄についても、手榴弾を投げ込むが不発に終わり、愛郷熟のメンバーに至っては変電所6箇所を襲うが、こちらはどうして良いかわからず、とりあえず手に持っているもので手当たり次第壊すに留まる。 結局は成果らしきものは、犬養首相暗殺くらいで、首謀者は自首ないし逮捕されてしまう。 この事件は規模は大きかったが、計画は杜撰で、およそ成功の見込みの薄いものだったと言える。 しかし、この事件が与えた影響は大きく、狙われた重鎮の内、西園寺さんは政党内閣を断念し、牧野さんは鎌倉の私邸に引っ込んで東京に来る時間も減らしてしまう。 気持ちはわからなくはないですが、もう腰が引けてしまいます。 ただひとり、鈴木貫太郎だけは意気軒昂と政党内閣への否定について声高々に大批判をぶちまけたが、世論もクーデターを計画した若い将校たちに恩赦を何て言い出すのだから、鈴木さんもやってられなかったでしょう。 五・一五事件は、軍部がロンドンやワシントンで軍縮に持ち込まれた政治屋に不満を持ち、また度重なる政治の失態による農村部の窮状に危機感を覚えた若者たちがうまく結びつき、政党内閣を否定し、軍部が推し進める戦略に基づき、国外の利権を拡大させることで窮状を脱するという、純粋な考えでの行動だったのかもしれない。 手段はどうあれ、それだけ国を考え、国に命を捧げていたのかもしれない。 しかし政党内閣を否定し、先軍国家にすることは、民意が反映されず、戦いを主眼に置いた戦略へと移行することにつながる。 現実、犬養首相の後任内閣は元海軍大将の斎藤実となり、与党・野党を引き込んだ挙国一位内閣を組織する。 そして以降第二次世界大戦終結後まで政党内閣が復活することはなかった。 出典・資料 wikipedia「五・一五事件」 半藤一利「昭和史」平凡社
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