血盟団事件

一人一殺

(2013年12月17日更新)

  • 上海事変での決着は、日本が国際社会からの避難を回避するための行動として評価でき、戦争を回避したいという天皇陛下の意思が反映された結果として終着することができた。 しかし、軍部特に陸軍中央は面白くない。 「政府が及び腰で南京を抑える絶好のチャンスを不意にしてしまった」 と言ったかどうかは知らないが、事変の後、少しずつそんな声がそこかしこに聞かれるようになる。 結果的にこの軍部の不満が、後の五・一五事件につながるのだが、その前に上海事変勃発後に起きた民間のクーデター事件である、血盟団事件に触れておく。 血盟団事件とは、日蓮宗の僧侶だった井上日召というお坊さんが、政党政治家や財閥重鎮または華族などの特権階級20余名を、「私利私欲のみに没頭する極悪人」などと名指しし、暗殺を企てた事件で、実際に大蔵大臣と三井財閥の重鎮を暗殺した事件である。 この事件の背景にあったのは、間違いなく日本の右傾化にあり、後の軍部の力を増大させる一助となってしまう。 事件は1932年(昭和7年)1月初旬に、いくつかの政治結社と海軍将校とが謀議し、政府・財界の要人の暗殺を企てる。 しかし1月28日に上海事変が起きたため海軍が動けなくなったため、政治結社のみが決行し、後に以前断られた陸軍も含めて決起しよう、ということになる。 まずは民間がやって、調子がよかったら軍部もやろう的な、ずるい考えが見え隠れしないでもないですが、とにかく井上はその謀議に基づいて、2月9日に決起する。 最初に農村出身の小沼正が、小学校に総選挙の応援に来ていた濱口、若槻内閣時を含む、3期大蔵大臣を務めた井上準之助を銃殺する。 井上準之助と言う人は、関東大震災で蔵相を努め、モラトリアムを断行した辣腕の人で、先の東北の大地震でも、この時の政治手法の話が出るほどに優秀な人なんですが、そういった実績は関係なかったんでしょうね。 「一人一殺」を掲げる井上は、その後も目標にしていた要人の暗殺を実行しようとするが、井上準之助の成功で計画が難しくなったと判断し、急遽枢密院(天皇の諮問機関。憲法問題なども扱ったため憲法の番人とも呼ばれた。)議長の伊東巳代治から、三井財閥の團琢磨へとターゲットを変え、3月7日に菱沼五郎によって射殺される。 決起後、警察は2件の殺人が血盟団の犯行であることを突き止め、追い込まれた井上らは3月11日に自首することになる。 最後まで陸軍の協力は得られなかった。 この事件が象徴するのは、軍部ではなく、一般の政治結社から、政府への暗殺者が出たことで、政府への不満が社会全体のものであるかのように見られてしまったことで、政治よりも軍の意向が優先する、後の軍部絶対を生むことになる。 血盟団事件では軍部は立つことはなかったが、この事件の持つ血なまぐさい思想が、後の軍部のクーデターに発展していくことになる。 その後本事件の主要人物だった井上、小沼、菱沼、そして共同謀議を図った別の右翼グループだった四元義隆らは、一度は収監されるも、1940年(昭和15年)戦争が始まる前の年に恩赦で仮出所している。 菱沼や四元はそれぞれ政治の世界で辣腕を発揮し、四元は近衛文麿の書生や、戦争終結時の首相鈴木貫太郎の秘書官なども務め、その後の政治でも黒幕的な存在として名前を残していく。 テロリストがその後の日本社会に影響を与え続けてきたと考えると、何となく違和感が残る話ではある。 出典・資料 wikipedia「血盟団事件」 半藤一利「昭和史」平凡社
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