満州事変6

上海事件

(2013年07月06日更新)

  • 満州事変のお話も終わりに近づいてきた。 これまで、満州事変に至る国際状況及び中国の国内事情や、日本の置かれた立場、そして日本国民の思いと、新聞・マスコミの戦争賛美などを中心に満州で何が起きたのかを書いてきた。 大東亜戦争の始まりは、間違いなくこの満州での日本の野心があり、その野心を支えたのは石原莞爾という軍部の男だったことも既に書いた。 日本人というのは明治維新もそうだったが、大きな思想の前に、血気にはやった人々がひた走る傾向がどうもあるようだ。 満州での侵攻も、何となくそんな一本気な直線思考を感じてしまい、それがあとに続くあの戦争につながるのかと思うと、ため息をついてしまう。 個人的な感傷は目的ではないので、話を進めます。 満州事変を起こした後、軍部では満洲での戦争をどのように着地させるかの方向決めをしていた。 結果、これも石原がまとめたとされる、「滿蒙問題解決案」と呼ばれる指針ができる。 内容は満州(と内蒙古)を日本の領土にしてしまおう、というものだった。 しかし、奪い取ってはいおしまいでは、当然中国も、他の国々も黙ってはいない。 じゃあと考え出されたのが、日本が口出しをせずに、中国が自主的に日本に友好的な満州国をこしらえて、独立してくれれば良いのでは、と考える。 なかなかに都合のいい話ではあるが、やっぱり石原も脂ののった年齢で、イケイケだったのでしょう、傀儡政権を樹立して、日本の言いなり国家を作ろうということで、誰を国のトップにしようかなど、人選も含めて本気で考えてしまう。 この計画に対する中央の説得には、もうひとりの満州事変を引き起こした張本人、板垣征四郎が動き、話をまとめてしまう。 やはり世論の後押しも大きかったのだろう。当時の新聞を流し見ても、満州の蛮行をたたえる記事が散見される状況なので、意外とこの案もすんなり国民の支持を得ることができたのかもしれない。 今の人間から見ると、相当に虫の良い、かなりのマッチョ案なのだが、国の方針となった以上、イケイケどんどんは止まらない。 それに比例して、国際社会からは「日本けしからん」の声は高まる一方。当たり前ですね。 そんな状況を打破すべく、上海である謀略が起こる。 上海事件と呼ばれるこの謀略は、上海駐在武官だった田中隆吉少佐に対し、上海で事件を起こせば、世界の目は必然的に上海に向くため、何かあったら騒ぎを起こしてくれ、という指示の元、当時付き合っていた男装の麗人、川島芳子を遣い、中国人が上海で布教をしていた日蓮宗の日本人僧侶を襲撃して殺してしまう、という事件を起こす。 特に上海は米英の租界地としても有名で、各国なんらかの利害関係があるため、そこでの事件は見ぬ振りはできない。 待ってましたと日本政府は中国に猛抗議するのだが、そもそも中国には覚えがない話で受け入れることはできない。 お互いが譲らぬ中、あっという間に日本と中国との撃ち合いにまで発展してしまう。 この紛争に意図通りに世界の目は上海に向けられ、じゃあ今のうちにと、軍は吉林のハルピンまで攻めていこうと兵を進めていく。 こうして謀略に謀略を重ねて、日本はどんどん思い描く、満州国の独立に向けて侵攻を続けていく。 最初はソ連の驚異と、中国デモに対する抵抗から始まった戦争だったが、こうなると、もう悪乗りにしか思えない。 流石にこのままでは行けないと、天皇は当時政友会から首班指名された犬飼毅内閣に対し、陸軍を引き上げるように指示をする。 しかし犬飼内閣は陸軍に押し切られる形で、上海に3万の派兵を決めていたため、ではこの派兵で食い止めようと考え、司令官白川義則大将に「条約を尊重し、国際協定を守る」よう命を出す。 これに白川大将が応じ、上海を取り囲む中国兵を蹴散らしたと思うと、一気に停戦に乗り出す。 陸軍がどう言おうが、白川は梃子でも動かない。 この一連の行為に世界も「日本も本当は中国とは戦いたくなかったんだね」という見方に変わり、侵略を疑いだした列強も、一息ついて日本を見るようになる。国際連盟も、上海問題を満州との数々の事件とあわせて協議する予定だったので、この行為はとても上手くいったと言える。 しかし、その白川も、停戦の調印式だった4月29日の天長節の日(昭和天皇の誕生日)、反日の朝鮮人の投げた手榴弾で命を落としてしまう。 上海事件は、何とか形上は治められ、南京攻略まで考えていた陸軍の国際社会を無視した陰謀は回避されたが、明治維新の頃に、吉田松蔭の教えを受けた若い血が、反する考えの要人を狙う多くのテロを起こしたように、国内に、小さな諍いの芽が出始める。 出典・資料 半藤一利「昭和史」平凡社
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