満州事変3

新聞の扇動と軍部の暴走

(2013年06月08日更新)

  • あの戦争は日本の自衛戦争だった。 満州や朝鮮の確保は、言わば対ロシアの防衛線である。 こう言った言葉を現代の識者からたまに聞くことがある。 まあ、確かにそうだったのだが、個人的にはこの満州事変における、軍の考えはそれ以上の帝国主義的な身勝手さが見え隠れしている気がする。 政治家はいいキャッチフレーズで、さも満州の土地を日本が守るべき権益のように唱え、国民もその気になって、ゆっくりではあるが戦争奨励の雰囲気を作っていった。 関東軍(満州の在軍)は、先の石原莞爾や参謀板垣征四郎を筆頭に、満州での独自工作を勧めていた。 要は中国政府との喧嘩の用意を進めていた。 作戦は至極単純である。満洲鉄道の線路を爆破することで、関東軍を進軍させようとしたのである。 関東軍はそもそもが満州鉄道の警備を行う目的があるため、鉄道の攻撃があるのならば大手を振って、「うちのモンに手え出してくれたそうやのう」と言ったかどうかは知らないが、ドスのひとつも握りしめて殴り込みに行くことはできるわけである。 当時の関東軍司令官本庄繁も、「独断専行の決行に躊躇するものではない」と、政治用語っぽい容認をほのめかすので、どんどん謀略は盛り上がる。 しかし、きな臭い動きはバレるものなのか、天皇陛下や前回苦言を呈した西園寺公望が、当時の陸軍大臣に「よその土地のトラブルは外務大臣に任せるように」と陸軍に灸を据える。 一方、満州にいる関東軍の血気盛んな者たちは、司令官の認証もはっきりではないにしろとっているわけなので、作戦決行のため奉天郊外の柳条湖付近では着々と爆弾が仕掛けられ、戦争をはじめる用意が進められる。 しかし、大臣が言わば骨抜きにされてしまっているわけなので、このままでは計画ままならずと、板垣・石原は決行の日にちを10日も早めて決行に乗り出す。 こうして昭和6年(1931年)9月18日10時20分に柳条湖付近の鉄道が爆破される。 当然爆破したのは張学良の軍、ということになっている。 満州事変の始まりである。 事変後の新聞マスコミはどうだったか。 前回書いたように、大阪朝日や東京日日新聞(毎日)などは中国軍の計画的行動を書きたて、けしからんと世論を煽っていく。 今回のマスコミの軍部賛歌の背景は、これまでの軍部批判によって起こった不買運動で新聞が売れなくなり、これじゃあいかんと方向転換したことが主因で、ナショナリズム高揚の追い風もあって、両新聞社の事変後の号外はそれこそ飛ぶように売れた。 国民の気風も、「支那ごと占領」や「景気がよくなる」などの声もあり、国民の大きな支持も受けていた。 そんな中、政府はあちらを立てればこちらが立たずと、喧々囂々、あーでもないこーでもないとやりあって、結局西園寺の手前もあってか、満州不拡大方針を関東軍に伝え、暴走を防ごうとするが、石原の要請で朝鮮軍を率いた林銑十郎(後の33代総理大臣)が、大元帥の命も受けずして越境して中国領土に入ってしまう。 この要請は、張学良に喧嘩を売ったものの、当時2万の関東軍に対し、11万強の張学良の兵に立ち向かう上で、必要な戦力でもあった。 しかし、この行為は、本来国を超えての派兵は、大元帥である天皇陛下の許可無くしては行ってはいけない、明らかな統帥権侵犯なのだが、これに対し「出兵したのならしゃあない」とばかりに、時の若槻内閣は、予算を付けて林の独断侵攻を閣議決定してしまう。 こうなってしまっては、朝鮮軍の越境けしからんとおっしゃられていた天皇陛下も、帝国憲法の原則である閣議決定の尊重を重んじ、止むなしとなってしまう。 最初は明らかな謀略と、命令違反から始まった満州事変も、数日立つと、マスコミの戦争賛歌の大合唱と、ヘロヘロの内閣の中で、いつの間にか容認されて、国民は最終的には「よくやった」になってしまう。 しかしこれは明らかに順序やルールが違っており、同時にこの事件こそが、当時の日本の考え方を象徴するような気がする。 あの戦争は、本当に自衛戦争だったのか。 こうしてひとつの事件に象徴される経緯を見ていくと、どことなく怪しげな空気が漂っている気がする。 出典・資料 半藤一利「昭和史」平凡社
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