満州事変1

ならもう俺たちが満州を抑えちゃうよ

(2013年04月27日更新)

  • 第一次世界大戦を越えて、イケイケだった軍部をよそに、国民の間に、軍隊ってどうよ、という雰囲気がそこかしこに出始める。 そこに昭和恐慌がやって来る。 昭和4年10月に起きたアメリカでの株価の大暴落を受け、浜口雄幸は昭和5年1月に金輸出の解禁を実施するなど、緊縮財政に乗り出す。 これが結果的に外貨の流入を呼び、工業生産額や製品価格の下落を起こしてしまい、教科書での言い方で言う昭和恐慌を引き起こす。 先にも書いたが、そんな折に戦争をやっている場合ではない。 国民生活が不景気になるなかで、何で働き手を奪われる戦争を起こすのか、ということになるため、必然的に人々は不景気に伴って、手頃な娯楽を求め、公共事業投資を期待する。 パチンコ店なんかもこの年に名古屋で初めてお目見えしている。 意外だと思われるかもしれないが、あの時代誰もがお国のために侵略戦争を望んでいたように、教育の中で植えつけられた人も多くあるのかもしれないが、実はそんなこともなく、震災からの復興で人々は活気があり、例えば上野駅でアジア初の地下鉄ストアが作られたり、宝塚歌劇団では本格的なレビューが行われたりと、戦争どこ吹く風状態だったため、次第に軍人は少し疎まれる存在になっていく。 僕は兼ねてから、戦時下の日本人が戦争を好んでいたように描かれる書物を見るたびに、何となく違和感を感じていたのだが、実際問題として、恐慌によって持たされた復興に向けた団結は、やがて厭戦気分に国民感情を向けいていったようだ。 因みに昭和5年は国内初の冷蔵庫や洗濯機が今の東芝から市販された年らしい。 しかし「軍隊は使わないのが良い」という人もいるが、不景気に使わないものを置いておくのはあまりよろしくない。 戦艦は国際会議で減らされ、軍人の給料も減っている頃に、一部の軍人さんは、「あれ?このままじゃヤバくね」と思い始める。 何についてかというと、日本の国防にあたる設備があまりに劣り、今大戦があったら俺たち負けんじゃね、と思い始めるのである。 この当時の国家財政における軍事費の割合は、28.5%だそうで、今から考えるとおどろくべき数字だが、内容は軍艦もろくすっぽ持たず、火力・機動力ともに列強国の数百分の1程度しかなかったという。 ここにこの当時の天才戦略家、石原莞爾中佐が現れる。 陸軍士官学校・大学校を主席で卒業し、戦略戦術に右に出るものなしとまで言われた男は、ある構想を打ち出す。 世界の歴史を研究し、軍事技術の成長が続くと、いずれ世界戦争に突入するという、「世界最終戦争論」を打ち出し、世界の勝ち残りゲームに残るためには、日本は戦わず、国力を蓄えて行くべきであると論じた。 そのためには中国とは戦わず、手に入れた満洲を基盤に手を取り合って行くべきであると主張するのである。 しかし、この考えはもろくも崩れてしまう。 当時の中国は今のような排日運動がいまよりもっと過激に存在し、国民軍に寝返った張学良の満州の日本の生命線である、満州鉄道に対する妨害によって、満州鉄道は経営難に立たされてしまう。 そのため、石原は満洲を日本の国力の基盤にし、邪魔な張学良は掃討し、代わりに日本の関東軍が武力によって治安を維持させ、なるべく現地人の生活には干渉しない国作りを行うべきだとする、「関東軍滿蒙領有計画」を立案する。 この考えが後の満州事変につながるわけだが、その前に、当時の排日運動の出来事を書く。 昭和6年6月27日に、中村震太郎大尉が、スパイ容疑で張学良配下に銃殺される事件が起こる。 しかも証拠隠滅のため遺体を焼かれてしまう。 次いで7月2日中国人の農民と朝鮮人の農民と衝突する。(万宝山事件) きっかけは、中国の国民党が出した「鮮人駆逐令」という、早い話が朝鮮人を追い出そう、という無茶苦茶な条例で、反発した朝鮮人が日本の総領事館に駆け込んだことで、日本の武装警官が出動し騒ぎが大きくなる。 背景には、先に述べた、排日があり、朝鮮人迫害があるのだが、この報道がされたことで、朝鮮半島で反中国運動が起こり、日本の世論も、中国はけしからんとなっていく。 この状況に、石原莞爾もマッチョな軍人らしく、「ならもう俺たちが満州を抑えちゃうよ」と思うわけで、かくして満州事変に日本が突入していくことになるのである。 そのお話は次回。 出典・資料 半藤一利「昭和史」平凡社
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