日本軍の制度 士官の養成機関

彼らが天皇の軍隊で、軍隊の目的は天皇に奉公することであるということを叩き込まれる

(2013年04月10日更新)

  • しばらくは閑話休題になるが、今回は旧日本軍の制度について出典を元に記載しておこうと思う。 戦争の本題に入る前に押さえておきたいのは、旧日本軍ってどういう組織だったのか?ということである。 そもそも旧日本軍は、明治の大物山縣有朋が、明治6年に国民皆兵の徴兵制度を発布し、明治7年に士官養成のための陸軍幼年学校、陸軍士官学校、海軍兵学校を作る。 富国強兵の最中、欧米列強国に負けじと軍隊を早急に整備していくが、海に囲まれた日本で、国防の観点からも、海主陸従の方針で、軍艦の建設を進めようとしていたが、当時の日本にその技術はなく、日露戦争でも述べた通り、イギリスから譲り受けた軍艦で戦力を整えていた。 当然ながら、軍艦の数が少ないため、海軍を増強してもどうやって戦えということになるので、実際は陸軍の機関が圧倒的に多く、必然として士官候補生も陸軍が多かった。 また、海軍は薩摩閥が多く、陸軍は長州閥多かったのも影響していたのか、西南の役で西郷隆盛が倒れると、薩摩派閥は追いやられ、陸軍重視の気風が流れるようになる。 陸軍中心のその軍備を整えていった旧日本軍の兵力は、徴兵制度で入隊した多くの一般市民と、それを束ねる少数の職業軍人で構成されていた。 職業軍人というのが所謂士官の位にある人たちで、因みに徴兵制度で駆り出された一般市民が、士官である少尉の位にまで上がることはまずなかったそうだ。 では陸軍の士官にはどうやったらなれるのか? 陸軍の場合、先に述べた幼年学校に入学し、3年間の教育過程を経る。 入学学齢は満十三歳で、全国主要都市6箇所で大体250名程度が入学したそうだ。 幼年学校を経ると、今度は士官学校に入学する。 士官学校では予科役から候補生、隊付けとなり最終的には本科生課程を終了し、大体4年くらいで少尉(士官)となる。 因みに将校という呼称もあるが、士官とほぼ同じ意味と考えて良い。 こうして無事将校として現場に出た若い軍人はさらなる出世を目指すには、陸軍大学校に入学し、上級士官を目指す道があった。 しかし、当然のことながら狭き門である大学校は、受験資格も、三十歳前の2年間だけで、且つ連隊長の推薦が必要で、入学枠もわずか50人程度という、過酷な受験レースだった。 先の述べた大本営の中枢に入れるのは、更にこの狭い門の中でも上位1割というから、目もくらむばかりのエリートと言える。 ここで教えられるのは、当然のことながら軍事教育の帝王学で、当時はプロシア式の軍事教育が施されていた。 ドイツ人メッケル少佐によって教育が施された軍隊のエリート候補達は、やがて「軍国主義」と呼ばれる軍事体制を整備していく。 教えられる内容としては、無論過去の戦争や参謀教育を教えられるが、最も重要なのは、彼らが天皇の軍隊で、軍隊の目的は天皇に奉公することであるということを叩き込まれる。 今の感性で言うところの国そのものではないのである。 これを国体と言い、軍人はこの国体護持のために戦っていたとも言え、国体は日本人の精神の支柱だった。 結果として、多くの軍人が天皇陛下に対し、並々ならぬ忠義を持ち、その結果、異常とまでに思える、一本の命令系統が出来上がる。 それはそのまま「統帥権」という言葉に転化され、旧日本軍の形を形成していく。 今の僕たち日本人が、あの時代の軍隊を少し異常だと思う感覚は、おそらくこの統帥権にまつわる「皇軍」としての認識にあるのではないか。 そもそも軍隊は国のために戦うので、その指示系統に対しては、上からの絶対的な命令に基づいて行わなければいけないものではあるが、そこに日本人特有の湿った感覚がこの「統帥権」には含まれる。 絶対的な天皇陛下のためならば、他国の山奥での戦争も辞さず、ミサイルを抱えて敵機に突進する。 この異常さと「軍国主義」を照らして考えがちなのだが、国体という考え方を踏まえておかなければ、感覚としての誤解が生じる。 国体とは天皇制そのものではあるが、当時の日本人としては国そのものと捉えていたと考えれば分かり易い。 士官というものはこの考えを徹頭徹尾教えられており、そのことが後の大戦に少なからず影響を与えているのである。 出典・資料 保阪正康「あの戦争は何だったのか」新潮社
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