軍部とは一体誰のことなのか?

軍部はただの狂った組織だったのかと言えばそれは違う

(2013年04月05日更新)

  • 満州事変に入る前に、はたまた閑話休題に入ろうかと思う。 このエッセイも夏くらいからストップしてしまい、どうせ誰も見ていないだろうと思っていたら、思わぬところからこの後は書かないのかの意見をいただき、再度書き込むことにしました。とはいえ再会しようとしてまた閑話休題というのもどうかと思うのですが、あの戦争に入る前にどうしても書いておこうと思うのが、「軍部とは誰のことなのか?」ということなのである。 前回「統帥権」について書いた。併せて軍令と軍政の違いについて書いた。 なんとなくだが、軍部は軍隊を率いている組織そのものを指すように感じている人が多いようで、あの戦争は「軍国主義」だった日本が、戦争を起こすために軍部が国民を欺き、多くの人がやりたくもない戦争に駆り立てられた、と思っている人が多いように思う。 確かに軍部が戦争をしたがったことは否定はできない。 国民を欺いたというのもそんなに遠くない表現だろう。 しかし、押さえておきたいのは軍部自体が、鉄砲を担いで敵陣に乗り込んでいったわけでもないという事である。 「何を言ってるんだこいつは」と思うかもしれないが、ここを間違えてしまうと、戦時中の日本人は狂った国家だったように勘違いをしかねない。 要は軍部というものは、国の舵取りを行うための一部署で、実際の戦争の実態を知らない、または知らなくてもやっていける組織であったということである。 そもそも旧日本国軍というのは大きく分けると、実際に戦争に向かう実行部隊と、作戦などを立てる作戦部隊とに分かれる。 僕たちが真っ先に思い浮かぶ軍部は、たぶん所謂兵隊さんのことで、彼らには統帥権(軍隊を差配する権利)は無く、あるのは統治権(政治的な権利)だけである。 統帥権とは、実際に戦争に向かう実行部隊を操る権利ということで、スポーツで言ってみれば監督のような立ち位置である。 監督は選手育成や戦力保有、はたまた作戦を立てて試合に望み、選手はただそれに従順に従うのみである。 攻撃中心のチームにするも、守り専門のチームにするも、ある種監督次第なのである。 軍国主義という言葉の中に、チーム全体の戦略のように感じる人もいるようだが、同時にその軍国主義を作ったのが誰なのかを知っておく必要がある。 それが「軍部」と言う組織なのである。 軍部は、旧日本軍を形成する組織の中枢で、戦時下では大本営と呼ばれていた。 大本営の組織は、作戦を立てる参謀本部、または軍令部を指す。 これだけでも旧日本軍の組織の中では、超エリート集団ということになるのだが、その中に更に、実際に作戦を立てる作戦部があり、ここで軍隊の作戦や戦力をなどを扱う超超エリート集団がある。 作戦部は大体20名くらいの、所謂大学校を主席で抜けた人で構成されており、場所は後に移転するが、参謀本部は永田町の三宅坂付近の建物の2階にあったそうで、本当に少数の人間が国の行く末を決めていたようである。 つまり戦争の大方針をこの作戦部が立案していたわけで、その彼らの戦略が戦争に駆り立てていったという意味においては、彼らの立てる作戦や発信する命令などが、軍国主義ということになるのである。 少数のエリートに指し示す「軍国主義」という道に、日本国民が扇動されてあの戦争に向かった、と言えばある意味では正しいかもしれないが、ある意味では正しくない。 説明ついでに書くが、この少数の「軍部」が「軍国主義」をかざしたところで、議会が動かなければ戦争はできないわけだし、国民が承知しなければ国も動かない。 そして、当時の統帥権は天皇陛下が持っていたもので、参謀本部や軍令部は権限を貸与されていたわけなので、当然のことながら天皇陛下が「だめ」と言えばそれは「だめ」なのである。 軍部がかざした軍国主義の旗は、議会が承認をする。これには前回書いた通りの「軍部大臣現役武官制」と「統帥権の干犯」問題が関与している。 そして国民が「徴兵制度」によって、徴収される立場にあり、同時に「軍国主義」に対しての期待感も大いにあった。 天皇陛下自身も田中義一のことがあり「もの言わぬ天皇」になっていた。 こうして、国家全体が戦争へとひた走る構図が出来ていくこととなる。 軍部とは作戦を立てた一部のエリートを指し、決して軍隊そのものを指すものではない。 そして軍部の示した方向を否定するだけの材料は沢山あったのだが、その制度と時代の中で、肯定され、やがて戦争に向かっていくことになるのである。 最後に付記しておきたいのは、「では軍部はただの狂った組織だったのか」と問えばそれは違う。 ただ戦争を起こしたがる、帝国主義者なのかといえば、それも多分違う。 彼らはそもそもエリートである。 エリートであるが故に、彼らの尺度で日本の生きる道を模索した結果、彼らは戦争に向かう道を決断したのである。 圧倒的な力の差がある巨人に立ち向かう作戦を立てていた彼らは、毎日どう考えていたのだろうかと想像すると、彼らは大学校で、日本国のこれまでの戦略・戦歴を多分教わってきたであろうし、圧倒的な力の差のある中で勝利してきた、大きな戦いも含まれていたことだろう。 その過去の栄光が、彼らの頭の隅にあって、どうしても数字だけでは測れない、何か別の力を信じてしまったのかもしれない。 しかし、それがただの妄想であり、苦し紛れの楽観であることを彼らが理解できなかったことが、嘘の大本営発表を垂れ流し、多くの国民を結果として欺いたことになってしまったことが、多分この国最大の不幸かもしれない。 今の政治家と官僚の関係にも通じるようで、何となくうら寒さを覚える話ではある。

    出典・資料
    保阪正康「あの戦争は何だったのか」新潮社
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