ロンドン海軍軍縮会議

統帥権干犯と魔法の杖

(2012年09月13日更新)

  • 前回は陸軍の謀略によって、天皇陛下が内政に干渉し、内閣が辞職する結果になったことを書いた。 しかもこの事件で天皇は「内閣の上奏については自分の考えとは違っても裁可をあたえるようにした。」ことで、以降の軍部が出してきたものを、全て何も答えずで対応し、戦時下の軍部の暴走を引き起こした。 半藤一利さんの著書「昭和史」では、このころの天皇陛下の行動を、「物言わぬ天皇」と表現されているように、いくら自分が間違えていると思っても、上奏された意見に対する自分の言い分は抑えていった。 それでも内閣がしっかりしていれば、天皇陛下のスタンスでも問題はなかったのだろうが、当時は軍部大臣現役武官制なる法律があり、実質軍部が内閣を乗っ取っていたのは大まか学校で習ったとおりだろう。 軍部大臣現役武官制についてはあとの項で出していこうと思うのだが、今回はその頃の海軍はどうだったの?という事を書いていく。 1929年に世界大恐慌が起こる。 恐慌は直接的に人々の生活を困窮させ、世論は「軍隊に金かけるくらいなら、生活に金を当ててくれ」となるのが世の常なので、軍縮ムードになっていく。 1930年(昭和5年)1月に、ロンドンでは、補助艦(巡洋艦、駆逐艦など。まあ母艦より小さな艦船だと思ってください。) の軍縮が話し合われた。 話し合いは、アメリカ・イギリス・日本・フランス・イタリアの5大海軍国で行われるが、フランス・イタリアは、保有量の制限に反発し、部分的な参加に留まる。 日本の内閣としては、対米英に対して、7割を確保する方針を掲げ、財部彪海軍大臣がロンドンに乗り込み、提案した7割に近い6.975割という妥協案をアメリカから引き出すことに成功する。 日本海軍はこれに対し、議論の結果、今の日本の状況ではこれが精一杯だ、との判断で田中義一の後を継いだ浜口雄幸首相が、内閣の意見として天皇陛下に上奏し、天皇陛下はアメリカの申し出のとおり、受諾するよう命を下す。 ところがこの決定に対し、もともと納得のいっていない軍令部の偉いさんは、今回の決定事項を支持していた、今の農林水産省がある場所にあった海軍省に乗り込み、「軍令部は今回のことは納得していない」と、喧嘩を売って帰ってしまいます。 ここで当時の軍部のお話をすると、旧日本軍の組織は大きく分けると、「軍令」と「軍政」に分かれており、「軍令」は統帥権を持ち、「軍政」は統治権の内側にあった。 統帥権とは、つまりは天皇陛下が持つ、陸海軍の指揮・統率権を指し、旧日本軍の中では、「軍令」が統帥権を持っていた。 陸軍での「軍令」は参謀本部を指し、海軍の「軍令」は軍令部と呼ばれていた。 一方「軍政」とは陸軍省・海軍省からなる行政機構の一つであり、軍部と言っても、この二つは全く別の組織といっても言い過ぎではない。 今回の話のなかに出てくる「軍令部」は統帥権を持つ、天皇陛下に変わる軍の統率権を持つ集団であり、彼らが軍縮に反対したわけである。 これに対し議会でも、鳩山一郎や犬飼毅ら重鎮が、今回の件は統帥権の干犯であると騒ぎ立てる。 軍令部は勢いづき、今回の会議結果を反故にせよと騒ぎ立てるが、結局は「条約調印後の変更は日本が世界の笑いものになる」、という理由から、軍縮については会議結果を甘んじて受けることになる。 しかし今回の件で、条約調印反対の強硬派と、世界の趨勢に合わせるべきと言う良識派に溝が出来、大岡裁きばりの喧嘩両成敗で、両者は次々に役職を辞任する。 強硬派はその後次々に復職するが、良識派は後日予備役(簡単に言うと軍部と離れる人事。左遷みたいなもの)になって、軍人としての生涯を終えてしまう。 結果としてこの事件のあとに、海軍は対英米路線を主張する強硬派が占めてしまう。 統帥権の干犯という言葉は、司馬遼太郎さん評論集『この国のかたち(四)』の言うところの「魔法の杖」として、以降事あるごとにこの杖は振られ、やがて無茶だと思われる戦争に突入していく。 「戦況はどうか」 「今後の作戦に関する事なので教えられん」 「開戦はいつの日だ」 「今後の作戦に影響するので内緒だ」 「一日中街なかにお椀だけ持って立ってるけど、どうやってお金を稼いでいるの?」 「内緒だ」 などと言われ、追及すると、統帥権の干犯である、となるわけなので(最後のは「とんすいでのカンパ」です。わかりにくいしつまんないですね。)、 軍部は秘密主義の中でやりたい放題になってしまうのも、しょうがない話かなあとは思う。 この時代より以降、明らかに「統帥権」は「統治権」よりも上位になっていく。 しかし、権力や能力を持つ者は、責任を伴う。 日本人はこの責任という言葉に対し、とてつもない優柔不断さを見せる。 そして「統帥権の干犯」が、後の軍部の暴走につながっていく。 出典・資料 半藤一利「昭和史」平凡社 保阪正康「あの戦争は何だったのか」新潮社 Wikipedia 「統帥権の干犯」「ロンドン海軍軍縮会議」
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