関東大震災

あの戦争に人心が導かれていった布石は見られる

(2012年09月07日更新)

  • 今回のお話は直接的にはあの戦争とは関わりのないお話ですが、間接的には無視しにくい災害のお話です。 先に述べたように、日本は日露、第一次世界大戦とかかる戦で次々に勝利を収める。 戦争に勝つということは、当然ながら利益を生むはずだが、日本は第一次世界大戦によってもたらされた好景気後、好調だった生糸や綿糸産業の過剰生産もあり、1920年3月には戦後恐慌と呼ばれる不況に陥る。 要は戦後バブルにはしゃいだ人々が、ある日突然モノが売れなくなっていることに気づき、汲々とし始めるという話で、90年代バブルを思い出すお話である。 この不況は長期に渡り慢性的な不況として、かつて花形産業であった鉱山・造船業さえも停滞させ、社会全体に閉塞感が出る。 これも今の状況と似ているとは思うのだが、そこに追い討ちをかけて関東で大震災が起きる。 1923年9月1日11時58分。 神奈川県相模湾北西沖80kmで、マグニチュード7.9の地震が起きる。 2011年3月11日に起きた東日本大震災で9.0、1995年1月17日に起きた阪神・淡路大震災で7.3なので、その規模は推定できるだろう。(マグニチュードで0.2の差はエネルギーでは約2倍の差となる。阪神・淡路大震災と比べると大体6倍程度エネルギー量が違う) 当時の多くは木造家屋で、耐震構造ではない。 それが当時と今の違いで、関東大震災では10万9千の家屋が全壊し、10万5千人が死亡あるいは行方不明となっている。 正に未曾有の大災害だったわけだが、経済的にはこの震災でモラトリアムが出され、決済困難に陥る約束手形を不渡りにならないように体制を取り、企業倒産を出さないよう画策するが、この制度が不良債権さえも処理される事態となり、また山本権兵衛内閣の元、震災の4週後に設置された帝都復興院の後藤新平復興院総裁により、帝都復興計画が出される。 この計画案では30億という巨額の予算を上げるが、最終的には削られて5ヵ年計画で5億7300万円になる。 震災の被害額は45億7000万円だそうなので、後藤の試算はそこまで遠いものでもないような気もするが、当時の国家予算は14億強だったそうなので、5億でもよく出た方であると言わざるを得ない。 これだけの規模なので、復興に関する経費申請、震災による保険の履行、失業問題、がれきの処分などなど、後藤はさぞかし忙しい日々だったろう。 大震災下ではこんな話しがある。 大震災後はなにせ木造建築の多い東京は大火に包まれたものだから、新聞や印刷所が動かない。 震災に関する情報も国民はとりづらく、その中で間違った情報やデマが流れる。 その一つに 当時日本の植民地であった朝鮮の人々が「暴徒化し井戸に毒を投げ込んでいる」などという噂が流布し、一部出版可能な新聞社も加わって書き立てるので、朝鮮人に対する虐待が方々で行われた。 そんなアホなだが、疑心暗鬼は人間の常で、自警団との衝突の末に死者も出ている。 一方で横浜市の鶴見警察署長大川常吉は、保護下にある朝鮮人等300人の奪取を防ぐために、朝鮮人を引き渡すよう要求する1000人の群衆を前に 「朝鮮人を殺す前にこの大川を殺してから連れて行け。そのかわり諸君らと命の続く限り戦う」 と言い、さらに 「毒を入れたという井戸水を持ってこい。私が先に諸君の前にその井戸水を飲むから」 と言って、一升ビンの水を飲み干したとされる。 またこの混乱に乗じて、陸軍憲兵大尉だった甘粕正彦は、当時反社会的と見られていた社会主義者、大杉栄を殺害する、甘粕事件を起こしている。 彼は後に満州に渡り、映画会社の理事となっている。 この大震災は、戦争に入る前の大惨事として、また日本が経済的に長期低迷を余儀なくされた災害であり、国民のフラストレーションは、やがて戦争待望論に結びつく。 また、軍の横暴や、統治者として、軍部にとって都合の悪い思想を潰そうという軍の存在が少し見えてくる甘粕事件など、あの戦争に人心が導かれていった布石は見られる。 出典・資料 Wikipedia 「関東大震災」 藤岡信勝 「教科書が教えない歴史」
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