ワシントン軍縮会議

ワシントン軍縮条約と日英同盟の廃棄が、間接的に日本を孤立化させていく

(2012年06月11日更新)

  • 日本は日露戦争でロシアを倒し、名実ともにアジアの盟主となった。 世界に向けても海軍軍事国家としての名前を馳せることになる。 しかし、この勝利はかなり辛いもので、日本は日本海海戦に勝利した段階で、国家予算の8年分の軍事費を遣い、一方満州には70万を超えるロシア軍勢が控えている。 日本はこのまま続けても戦争に勝てる見込みはなく、政府としてはどうにか和平に持ち込みたい。 しかし、ロシアで一番えらい皇帝ニコライは日本に対し、「1ルーブルの金も、ひとにぎりの領土も渡してはならない」と言明し、交渉は難航する。 危機感を感じた日本政府は、インテリ金子堅太郎にアメリカ大統領のセオドア=ルーズベルトに、仲介役を依頼するよう命じる。 金子とルーズベルトは、金子がハーバード大学に留学中に面識を持っていたため、ルーズベルトに仲介役を持ちかけ、結果「日本はロシアに賠償金を求めず ロシアはその権益の一部を譲渡する」ことで、日本はロシアと講和条約を結ぶことができる。 正に首の皮一枚で何とか日本は生き延びることが出来たわけである。 しかし、日露戦争の勝利では、賠償金が得られず、それに不満を持った国民が暴徒化し、日比谷公会堂の焼き討ち事件が起こるなど、国民感情はますます好戦的になっていく。 世論は戦争の継続に傾斜していくが、ロシアとの戦いに於いて日本がどのような状態で戦っていたのかが国民に伝えられず、また、神風的な奇跡で日本が勝利したことで、多分テンションが上がっていたのだろう。 いずれにしても歴史上は、日露に死にものぐるいでぶつかって勝利した日本は、青息吐息で命からがら和平に持ち込めたのだが、情報が国民にきちんと伝えられず、賠償金も得ることがない低い外交能力しか持たない、軍事1流、政治3流の国家であると国民が思ってしまった。 本当は日英同盟、ポーツマス条約と日露戦争勝利の立役者とも言える外交成果をあげた、小村寿太郎の大功績なのだが、世論とはいつの世も付和雷同で、未熟な場合が多いものである。 しかし、これはどうやら後世の意見のようで、日本にとって有史の大事を多くの兵士の地で抗った戦争に対して、その勝利で勝ち得たものが少なかったことに対して、国民の怒りが根底にあるのは当然といえば当然かも知れない。 その後、ヨーロッパで起こった第一次世界大戦でも、よせばいいのに戦いに参加した日本は戦勝国として、ドイツのから山東省と南洋諸島の委任統治をそのまま引き継ぐ。 度重なる戦勝により、国民や軍部の中でも、日本の力というものを錯覚してしまう。 一方第一次世界大戦後の世界は、とりわけヨーロッパの国々は7年の長きにわたる戦いで、すっかり国土が疲弊していた。 これ以上戦争を続ければ、国や文化自体が滅びかねないと考えた各国は、これからは世界が団結して、協調していこうということになって、国際連盟という組織を造る。 同時に世界中の軍備を縮小させ、再び戦争が起こらない様にしようと言う考えが起こり始める。 その流れでワシントン海軍軍縮会議という会議において、主力艦(戦艦や空部)の保有を減少させる条約を日本は締結する。 内容は5:3の比率で主力艦を保有するというもので、アメリカ・イギリスの保有が5に対し、日本は3だよという約束をしたわけである。 因みに参加国は、フランス・イタリアの海軍国のほか,中国・ベルギー・オランダ・ポルトガルが参加し、アメリカ、イギリス、日本以外の国は約1.7の比率となった。 今もアメリカは核の保有で似たようなことをやっていますが、昔からとにかくお山の大将的資質の持ち主だったようだ。 この会議では、他に中国の主権尊重を題目に、日本と中国で結んだ中国での権益を事実上廃止させられた九か国条約や日英同盟が御破算になった四か国(日仏英米)条約など,日本の中国進出の封じ込めが行われる。 要は出る杭は打たれるで、日露の勝利で日本を警戒し始めた英米は、自分たちの権益さえも脅かす可能性のある日本に対し、楔を打ち込んだのである。 実はこの会議で決められた条約が昭和に入りボディーブローのように効いてきて、間接的に日本を孤立化させ、米英とのあの戦いに突入する要因となっていく。 出典・資料 Wikipedia 「日露戦争」「ワシントン海軍軍縮会議」 半藤一利「昭和史」平凡社
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