八甲田山雪中行軍事件

閑話休題:戦争に至るプロセスの中で、軍部が決定権を持たず、外交を通して戦争が選択されている

(2012年05月25日更新)

  • 前回大東亜戦争に向かった要因となる歴史的出来事が二つあり、そのひとつとして日露戦争の勝利をあげた。 日露戦争が日本人の、とりわけ軍部に不敗神話をイメージさせ、同時に列強国に並ぶ海軍大国であることを世界に立証したことで、日本はいい気持ちになってしまう。 この日本軍人の、妙な自信が、後の色んな事件につながるのだが、それを語る前に、それほどまでに軍人が自信を付けた日露戦争の相手国、ロシアという国は日本にとってどれほどの驚異だったのか。 そのことが少しだけわかる事件を今回は紹介する。 事件は日露戦争前の1902年に青森県の八甲田山という山での雪中行軍という演習で起きた。 八甲田山は青森市の南側にそびえる火山群の総称で、一番高い大岳でも1590メートルほどの、特に突出して高い山でもない。 しかし、青森県らしい雪深いこの山で、踏破する雪中行軍が行われる。 この雪中行軍が行われたころの日本は、対ロシアとの戦争による主戦派が政府首脳を占め、日本とロシアの戦争は避けられないと見ていた。 ロシアと戦争ということになれば、当然ながら満州の雪深い大地での戦闘になる。 また、ロシアが南下し、艦隊で陸奥湾や津軽海峡を占拠されると、幹線道路は砲撃により麻痺してしまう。 この時、通常のルートとは異なる八甲田山のルートが使えるかどうかを知っておく必要がある。 こうした理由により八甲田山雪中行軍は1月23日の朝に行われるわけだが、この演習によって、青森歩兵第五連帯第二大隊210名中、199名が雪の中で死を遂げる大惨事となる。 原因は未曾有の寒波が本州を襲ったことにあったのだが、この事件をきっかけに、陸軍は雪での装備や気象研究の甘さを実感することとなる。 この時の経験を生かし、2年後に始まった日露戦争では、極寒の満州での勝利をモノにする。 結果としては、山岳事故の犠牲者数ではかなりの大事故になってしまったが、日本がロシアを研究し、実際の戦争時のシミュレーションとして行なった演習としては、高い危機管理があったと思えなくもない。 何より、ロシアが日本国内を攻撃している状況がシミュレーションできているのは、それだけロシアと戦争することが、イチかバチかの戦いだったことを物語っている。 大東亜戦争の関連本を読んでいるといつも思うのが、何故そんな戦いをしたのか、何故そう考えたのか、という疑問が常に付いて回る。 そもそも物資の差が10倍以上の国と戦争をすることや、資源力で負けているにもかかわらず、太平洋という大きな地域で、その海に浮かぶ島々を占有していくような戦争を仕掛けたこと自体、疑問だらけである。 これも日露間の戦争までのプロセスを見ていくと、読み取ることができる。 日露戦争では、戦争に至るまでに、外交を通して戦争が選択されている。 つまり、大東亜戦争時下では効いていなかったシビリアンコントロールが効いていた。 大東亜戦時では、軍部の意見が通らない場合は、内閣自体を解散に持ち込めるという軍部大臣現役武官制という法律があり、政府は軍部の意見を聴かなければ議会が進行しない状況にあった。 そのため政府は、軍部の顔色を見る必要があり、それが日本を偏狭な軍部の国にしてしまったのだが、日露戦争の頃には、政府がきちんと機能し、戦争に必要な金額や敵の戦力などを分析し、それら検証と議論の上に戦争の道を辿っている。 八甲田山の遭難事件は、戦争に至った場合の準備として起きた事件と言える。 勿論、この教訓が無ければ、日本は満州の大地で数百人では効かない犠牲を出していた可能性もある。 思うに日本はこの時まで、日本の力を信じ、純粋に国家の存亡を賭けて、軍隊を作り、戦っていたのだと思う。 しかし、それが日本を守るためではなく、日本の利益を増やすためという目的に変わったことから、俗な言い方で言えば調子に乗ってしまったのかもしれない。 結果として政府は軍部に威圧され、戦略は作戦家の思いつきのような形になり、外交は駄々っ子の子供のように無視されて、やがて孤立していく。 日露戦争に勝ったことで、国は一時的に潤ったことが、やがて奢りへとつながり、やがて破滅への一歩に近づいていくのである。 出典・資料 Wikipedia 「日露戦争」 藤岡信勝著「教科書が教えない歴史」
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