日露戦争

日本人がロシアとの戦争に勝つことができたのは、日英同盟が深く関与している

(2012年05月23日更新)

  • 日本人があの戦争に向かっていったのは、満州の維持が理由の一つであると「満州国」の項で書いた。 そしてその後ろにはロシアの脅威と、日露戦争の勝利により得た権益の死守があった。 しかし、それ以外にも当時の日本が抱えた、二つの歴史的な出来事について今回は触れていく。 今回は、日本が大東亜戦争という、無謀とも呼ぶべき戦争に何故突入していったのかを解き明かす鍵となる、日露戦争の勝利についてである。 20世紀初頭までの日本は、日露、第一次世界大戦と、戦勝に継ぐ戦勝により、強国として権勢を誇っていた。 特に明治期からの仮想敵国であるロシアを日露戦争で破ったのは大変に大きかった。 日本はこの大国を破ったことで、後に大和などの戦艦に見られた、大砲巨漢主義にもつながり、また先に述べた満州へのこだわりも、多くの血を流した日露の戦争が大きく関わっている。 では日露戦争とはどういう戦争だったのか。 19世紀の世界情勢下で、独仏戦争に勝って成立したドイツ帝国は、ヨーロッパの各国と同盟を結び、フランスに対しての封じ込めを行うべく動きを見せ、また、大国であるイギリス・ロシアとは協調路線を取っていた。 しかしドイツ自らが、ヨーロッパでの拡大を図れない現状に徐々に強調路線を重荷に感じ始め、ロシアとの協調路線を破るべく、過去のロシアとの安全保障上の軍事同盟を破棄する動きに出る。 当然ながら、危機感を覚えたロシアは、ドイツの三国同盟(ドイツ・イタリア・オーストリア)の防衛策として、フランスとの同盟を締結する。(露仏同盟) ここに三国と相対する露仏という構図ができあがる。 当時のドイツは植民地が少なく、その権益を中国に求めるべく、手を伸ばしていた。 ドイツとしてはヨーロッパの領土の安定を確実にし、なおかつ領土を中国に増やすためにも、露仏の同盟を形骸化させる必要がでてくる。 ドイツの東西を安定化させるためにはイギリスとのいさかいは避け、尚且つロシアがドイツに向かわないようにするために、ロシアの勢力自体を極東に固める必要がある。 そこで考え出されたのが日本とロシアの戦争である。 そのため、日独英の同盟がドイツより示唆されるに至る。 一方イギリスの本音は中国国内の植民地の治安維持であり、満州からの南下を狙うロシアへの懸念だった。 イギリスは当時ボーア戦争の終結に国費を遣い、アジアに国費は透過できない状況にあった。 そのため、日本の陸兵派遣を期待し、また、ロシアへの歯止めを期待していた。 日本もロシアが朝鮮に侵略し、日本をロシアの属国とする事への驚異に対しての大きな味方が必要だった。 双方の利害がまとまり、結果としてまず1902年に日英同盟が結ばれる。 当初日本はロシアとの戦争を回避するために、満州をロシアの支配下に置くことを認める代わりに、朝鮮半島を日本の支配下にするよう交渉を進める。 ロシアには何ら日本と戦う必要はなかったが、同時にロシアという大国が、たかが開国して数十年の国に対し、戦争を回避するような態度を取る必要もない。 しかし、戦争によって国力の低下は止むを得ないので、ロシア国内でも主戦論と非戦論が議論を重ねるが、結局は主戦論がロシアの世論にも押され主流となる。 日本もイギリスとの同盟もあり、またロシアの朝鮮侵略を匂わせる行動に戦争やむなしの見解が占めていく。 かくして日本はロシアと戦争するに至り、その後奉天会戦や日本海海戦などの戦いに於いて勝利を収め、日露戦争の勝利となる。 そもそも日露戦争で何故日本軍が、大国ロシアに勝利することができたのか。 無論よく知られている、ロシア革命という国内のゴタゴタがあったことが、戦争終結に向かわせたのではあるが、実際、日本の当時の国力で、ロシアに勝つことは難しかった。 可能にしたのは最新鋭の兵器をイギリスから譲り受け、その兵器をイギリスよりも良く使いこなした、日本軍人の柔軟性の高さと、二百三高地で有名な旅順攻略や日本海海戦のような、鍛え上げられた軍隊とその統率力があったからである。 のちの第二次世界大戦は、この時の対ロシア戦の幻想を持っていたために、日本人は精神的に列強より上であるという認識を、軍部のどこかに持たせていたのかもしれない。 いずれにしても、イギリスとの同盟がなければ、兵器は旧時代のものだったので、同盟に依る部分は大きい。 かくして日本はロシアに勝利し、満州の一部を租借することになり、満州をロシアを食い止める防波堤として、満州に関東軍を置いて、国防強化を図り始めることになる。 日露戦争が後の戦争にどのような影響を与えたのか? 一つに不敗神話をこの一戦で確固たるものとし、日本はどんな苦境に立たされても、必ず勝利を収めるという根拠のないイメージを日本人が持ってしまったことだろう。 冷静に見て、日露の戦いでは、日英同盟が大きな効果があったことは間違いない。 イギリスは直接的な戦争への干渉は行わない、中立の立場にはあったが、同盟が日本にとって優位に働いたのは、戦略的にも、物資の面でも間違いはないだろう。 しかし、このような状況分析を生かせず、後の対戦では、明らかに軍部は、不敗神話を信じ、無計画に突き進んでいく場面が多くあった。 日露の勝利は、そのまま日本人の奢りと、絶対的な自信につながり、それが軍部の暴走を生んで行く結果になっていったのではないだろうか。 出典・資料 Wikipedia 「日露戦争」
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