大東亜戦争と太平洋戦争の違い

日本を中心としたアジアの共存体制を取るための戦争

(2012年03月13日更新)

  • 1941年(昭和16年)12月8日に、南雲中将率いる航空部隊がハワイオアフ島の真珠湾を奇襲による攻撃を行い、1945年9月2日にアメリカの戦艦ミズーリ号艦上でポツダム宣言を受諾するまでの約3年半に及ぶ日本とアメリカ・イギリスなどの列強国との戦いを、日本の陸軍は大東亜戦争と名付けた。 この戦争の目的は、開戦後の昭和16年12月12日の閣議決定された内容では、「大東亜(アジアの各国々)新秩序建築のため」ということになっている。 要はアジア各地から欧米列強国を追い出し、日本を中心としたアジアの共存体制を取るんだ、というのが大義名分となり、同時にこの戦争が、太平洋上に拘わらず、戦争は広範囲に亘ることを宣言している。 そのため、陸軍はこの戦争を「大東亜戦争」と名付けるのだが、これは完全に後付である。 当時の日本は、ヨーロッパで大暴れしていたドイツと手を結び、中国の侵略戦争を糾弾された国際連盟を脱退し、最大の最大の輸入相手国だったアメリカからも資源の差し止めされ、完全に追い込まれていた。 要約すればこうである。 たいして喧嘩も強くない大和(やまと)君と、喧嘩がすこぶる強い独逸(どいつ)君がいるとしよう。 大和君は独逸君と友達だから、その威光の元で、弱い友人の清(しん)君をいじめて、清君のものを取り上げてしまう。 見かねた、独逸君も一目置く米加(めりか)君が、清君のものを返すように言うが、大和君が無視するので、それでは大和君を皆で無視しようと言い出す。 それからというもの、給食も回ってこないは、終わりの会でも或ことないこと言われるものだから、大和君はだんだん頭にきて終わりの会も出なくなってしまう。 それでも、しばらくは我慢をしていたのだが、大和君は体育の時間の体操などでも、誰からも相手にされずパートナーになってくれる人もいないので、困ってしまい、よし、あの米加君をやっつけてしまおうと、米加君が油断した隙をついて、米加君の持ち物を壊してしまう。 また、給食なんかは他の東南アジアクラスに行って、力でねじ伏せて、給食を奪おうともしていた。 この話だけ聞くと、最初調子に乗っていた大和君が悪いと言えば悪いのだが、しかし米加君も、みんなでシカトして、給食さえもとらせないようにするとは、かなり陰険である。 日本はこのような陰険なことをアメリカにされ、止むを得ず、資源を求めて南進(資源豊富なインドネシアなどの欧米が非有するアジアの植民地の奪還を狙った)政策を行なったため、アメリカとの戦争に突入したのである。 しかし、そんな自衛の戦争だったものが、最初真珠湾の奇襲の成功などで舞い上がり、言わば大風呂敷を広げて、大東亜戦争と名付けたようだ。 因みに開戦の詔勅(戦争を始める際に出された、戦争宣言書のようなもの)には、このような文言は見当たらない。 議論としても、あの戦争の期間について、真珠湾攻撃の日ではなく、満州事変や、日中戦争から入れるべきだと言う人もおり、この解釈から「大東亜戦争」と呼称する場合もある。 因みに「太平洋戦争」はアメリカ側の呼称であり、主にアメリカと先頭を繰り広げた期間を指す場合はこの呼称を使用するのだが、戦後「大東亜戦争」の呼称自体をGHQに禁止されたこともあり、反発する意味で「大東亜戦争」と呼ぶ場合もある。 これを踏まえた意味で、本エッセイではあの戦争を、アメリカとの戦争だけではなく、日本が中国に取った統治政策を含めて、考えるべきだと考えるため、「大東亜戦争」と呼称していきます。 出典・資料 半藤一利 「昭和史」
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