自虐史観

自虐史観とは、あの辛かった戦争を否定することから始まっている

(2012年03月06日更新)

  • 最近、日の丸・君が代問題と言うものをよく耳にする。 学校などで一部の教師が日の丸掲揚時に起立をしない、君が代を斉唱しないという問題があり、これを罰せよ、という側は、学校先生が国家公務員であることを理由に、国に忠誠を誓うことができないようなら、教師をお辞めいただきたいという主張で、先生側は憲法19条の「思想の自由」を持ち出し、日の丸に敬意を払わない自由を声高に主張する。 議論としては、教師の分が悪いように聞こえる。 これからの国を作る子どもたちに、国を思わない教育を施すことがそもそも訳が分からないし、日の丸に敬意を払わない姿を子供たちに見せることが、一体どんな教育になるのかと考えてみるが、あえて言うなら国に刃向かう反骨精神を示すくらいだろう。 「日の丸を尊重せずとも国は思える」という主張もよく耳にするが、逆に国を愛する気持ちがあるのに、日の丸を蔑視する理由が分からない。 例えばオリンピックでメダルを獲得し、表彰台に上がる選手の必ずその後ろでは、国旗が掲揚され、国歌が流れる。 オリンピックで国の代表として戦った人たちが、国の国旗を背に成果を称えられることに、違和感を感じる人などいるのだろうか。 僕のような昭和の後半に生まれた世代は、戦争を起こした日本は悪であると教えられてきた。 近代史の授業では、日本人は他国を侵略をし、アジアの人々を苦しめ、世界を相手に戦いそして敗れたと教わった。 学生時代は、近代史は日本の悪行を習うものだと捉えていた。 一方で、アメリカが日本の暴走を止め、戦争を終結させたヒーローの様に教わった。 勿論学校の先生はそう意図して授業は進めてはいないだろうが、少なくとも何年かはそのようなイメージを持っていた。 しかし、年を重ね、たくさんの知識を得るうちに、それは違うということが分かってきた。 何がどう違うのかは別で詳細に書くとして、日本人が自虐的な視点であの戦争を見るのも、作為的なアメリカの戦略があったことを知る必要がある。 同時に戦争中に垣間見ることができた、昔の日本人が大切にしてきた心を知るとき、得も言えぬ感情が湧き起こる。 僕は国旗を見て、直接戦争をイメージすることも、軍国主義を連想することもない。 国旗はただの国旗で、日本人のアイデンティティの集結であり、それ以外の物は何もない。 よく日本人へのデモで、日本の国旗を燃やすアジア人の映像を目にするが、それを見ても特に感情はない。 しかし、戦史を知り、日本人の高潔さと、戦争に向かったやむを得ない事情を知った今、日の丸に対し蔑視する考えの中に、自虐史観が潜み、日本人が日本人を貶めている状況があることは、良くないことだと思う。 自虐史観の中には、あの戦争についての無知があり、過去の教育の間違いがある。 正しく状況を理解した上で、日本がとった行動がどうだったのかを検証し、結果自虐史観になるのは結構だが、理解をせぬまま、日本が悪いという一方的な考え方を教えるのは、教育としてはアンフェアーである。 教育というものは本来できるだけ、事実(史実)をありのままに教えるべきであり、そうして得た知識を蓄積することで、いろんな考えを誘発し、自己の考えを作ることが大切なはずである。 教育現場で、その偏った自らの思想を見せつけるのは、知識のある大人の前ではご勝手にどうぞではあるが、知識をこれから蓄える子供たちの前では、やはりイメージとして先行してしまう行為などは行なってはいけないと思う。 僕から言わせれば自虐史観とは、自分の食い扶持のための欺瞞と、それ以外は偽善に満ちたヒロイズムである。 今こそくさいものに蓋をしてしまった、戦後教育を見直し、あの戦争についての知識を持つことが必要ではないだろうか。 自虐史観とは、あの辛かった戦争を否定することから始まっている。 しかし、あの戦争を受け入れてから初めて、そしてもう一度何故あの戦争が何故起こったのかを考えることで、新しい日本人としてのアイデンティティが生まれるのではないだろうか。 出典・資料 Wikipedia 「大東亜戦争」
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