風水で幸運が舞い込むのか?

風水で言う玄関に赤いものを置くことで本当に運気が上がるのか?

(2012年05月14日更新)

  • このエッセイのどこかにも書いたが、僕は胡散臭いものに弱い。 胡散臭いものにはそれを信じる人の理屈を抜きにした、信じるが故のピュアなこじつけや解釈が大変僕の心の鐘を鳴らす。 特に最近は、パワースポットなる場所も現れ、そこに行くだけで運気アップだの、なんとも他力本願な場所が合って、誠に便利な世の中になったものだと感心してしまう。 何しろそこにいるだけで運気がアップするんだから、その近所に住んでいる人もさぞかし恩恵を被っているのかと思うが、存外街並みはみすぼらしかったりする。(失礼しました。) そもそも運とはなんぞや、ということを書いていくと立証なんかも必要になるので割愛するが、運とは一言で言うと思い込みの結晶のようなものである。 例えば「雨女」なる言葉があるが、これは何かイベントをやっても、その人がいると必ず雨になる、と言うような悲しい運命を背負った人のことを指すのだが、これもよくよく考えると、そのイベントには不特定多数の人が参加しているわけで、万が一雨女がいるとしても何故「雨女」を特定することができるというのか?という疑問が出てくる。 雨女と言われる人がいる場所だけ雨が降るというのならわかるが、実際は不特定多数の中の一人である雨女が、自分がそのイベントにいるだけで雨が降っている、というだけなので、雨の降った原因因子に雨女が関わっているかを証明する方法などは、多分ないだろう。 大体、年間で200日程度しか晴れのない日本で、「雨女」と言う人がいるだけナンセンスな気がする。 では何故自分が「雨女」だと思い込むのか。 それは人の記憶のメカニズムにあると言われている。 人間の脳は基本的に感覚・短期・長期の三段階に分かれて記憶されると言われており、長期記憶は記憶の反復によって記憶されることが多い。 たとえば受験勉強で脳に単語やらを叩き込むときは、何度も反復してその単語を練習する。 そのことで脳はこの情報を覚えなければいけないと思い、長期記憶化する。 こういう知識は意味記憶として、整理されて保存され、脳の発達がいいと、取り出す(つまり思い出す)のも自由にできるようになる。 スノーボードやサッカーのリフティングなんかも、反復することで、手続き記憶として脳に保管される。 雨女は記憶の過程で長期記憶化するまでに2つの要素があると考えられ、一つは性格で一つは出来事である。 一般的に具体的な経験を記憶するエピソード記憶が長期記憶化するためには、自分が経験した事柄が何か印象に残ることがあったりして、何回か思い出すことで長期記憶として残ることが多い。 例えばイベントで雨が降ること自体が運のないことで、たまたまそんなことが何回か続けば、その時の嫌な思い出と共に雨の経験が記憶として思い出されるため、長期記憶化する。 人はそれ以外に楽しいイベント時に何百回と晴れを経験しているにもかかわらず、自分がいると雨が降ると思い込んでしまうのである。 実は運の存在を信じる人も、これと同じメカニズムで動くことが多く、運を上げるその人なりのジンクスを信じる人などはその典型と言える。 たまたま朝に白い猫を見た男が、その日のパチンコで快勝すると、猫のおかげと思い込む。 そんなことが数回続けば、それがジンクスとして脳に記憶され、やがて朝、白い猫を見かけると運気が上がると思い込む。 運を強く信じる人などは、たまに白い猫を見たにも拘わらず負けたりしても、「いや、あの猫は白というよりグレーだった」と、自分の中で言い訳をして整理したりする。 谷岡一郎さんの「ツキの法則」(PHP新書)でも、ツキの正体は統計学上のゆらぎであることを明言している。 つまり、ずっとゲームを続けていると、勝ち続ける人と負け続ける人がいる。 感覚的には勝ち続ける人はツキが或わけだが、統計学上では逆にそういう人が居ない方がおかしいのである。 つまりツイている人は、たまたまそのゆらぎの中にいただけであり、実際には居て当たり前の話なのだ。 「ほうらみろ。それこそツキがある証明じゃないか」 と言う人がいるかもしれないが、統計学上でたまたまツイている人がいるということが、どうしてジンクスによって、そのたまたまツイている人になれるというのか。 運気というもの自体がそもそも統計学上のゆらぎであれば、運の正体も見えてくる。 「運気アップで仕事運も恋愛運も上昇」なんて見出しで、風呂の中に男が札束を握り締めて、美女をはべらせて、満面の笑みで写っている写真が、良く雑誌の裏なんかに載っているが、仕事や恋愛に対して、ツイている状態(統計学上のゆらぎ)は勿論だがない。 風水を扱う記事なんかを見ると、風水インテリアなる言葉があって、玄関に赤いものを置くだの、窓近くには植物を飾るだの、自分の家くらいは自由にしたいなあと思うようなことが書かれてあったりする。 風水とはそもそも、家のどこに食物を置けばものが腐りにくいとか、どこに水場を置けば部屋に湿気が起きにくいなど、生活に根ざした、風土・気候に関連した生活の知恵だった。 それが科学の発達で不要となった知恵が、運という何だかふわふわした、だけどなんだかあるような気がするという、エーテルのようなものと結びついて、息を吹きかえした感がある。 博士号が付いているのか、あるドクターを名乗っていた風水師も、テレビに出演して風呂の残り湯を洗濯に使うと、運気が下がるというようなことを言っていた。 公共の電波で何を言ってんだとは思ったが、何だかそんなことを聞いていると、運という物質のようなものが空気中にあって、その運を取り込むと、女性にもてまくったり、お金がじゃんじゃん入ってきたりするように聞こえてくるのだが、実際にお金が入ってきているのは、そのデマを喧伝する風水師だけである。 ツキの正体はただの偶発性で、その偶発性を高める方法は、数をこなすことだけである。 決して運は物質ではないので、女性にモテたかったら雑誌でモテる男を研究するなり、多くの女性に声をかけるしかない。 仕事運を高めたければ、自らのスキルを上げて、知識を増やし、社交性を高めるしかない。 結果としてそれはツキを呼び込む。 つまり、総体的な評価を高めていくことが、運気アップの実体なのである。 詐欺というものは努力のない所に、強大な利益があることを強調することが多い。 楽して儲けるのは弱い人の願望であり、人の弱い部分につけ込むのが詐欺だから至極当たり前での話である。 ほとんどの場合、努力なしに得られるものは、大したものなんかないので、運に頼らずに生きていきたいものである。 雨女がもしいるのであれば、そのメカニズムを解明して、是非中国の広がる砂漠にでも住まわして欲しい。
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