用心棒

監督 黒澤明
出演 三船敏郎 仲代達矢
制作 1961年日本

あなたの心に妙な平等心が生まれているのかもしれない

(2012年01月17日更新)

  • 今の小学校では、運動会のかけっこでも順位を付けず、みんな手をつないで一緒にゴールすると聞いて、ぞっとした。 まずは人に勝つ喜びも、負ける悔しさもない運動会に意味を感じないし、何より順位を付けない意味がわからない。 自分の子供が小学校に上がったらそんな環境で大きくなるのかと思うと末恐ろしいので、いっそ中国にでも逃げようかと思ったが、貧富の差が激しそうで、勝ち負けが生き死にに関わりそうなので辞めた。 しかし、競争を避けるための平等に一体何の意味があるのだろうか、と思ってニュースを見ていると、談合だの、抵抗勢力だの、○○組合の組織票だの、日本は集団で行動するのがお好きなようで、きっとその集団は自分たちの利益を徴収するため、平等な権利とかを主張して叫ぶのだろうなあと思うと何だか情けなくなってきた。 そもそも人間は平等ではない。 平等な権利は必要かもしれないが、そもそも人間の能力は平等ではない。 例えば体の大きな人に対し、小さい人は格闘技で戦っても大抵の場合、勝ち目はない。 だから格闘技では階級があるわけで、それを平等だと言って無くしてしまったら、下手したら死人が出てしまう。 世の中の大抵はこういった分かりやすい違いがあるわけではないので階級分けはできないのだが、差を工夫を凝らしどのようにして勝つことができるのかを考えることが、人生において大事なことであり、決してそういった違いから目をそらしてはならない。 競争無くして進歩無しである。 人生訓の類になるのであまり好きではないが、最近「己を知る」ということが出来ていない人がとても多い気がする。 己がどれだけの人間なのかを知ることで、でしゃばらない、そして努力する人間を形成する。 「世界にひとつだけの花」だと思っている人は、みんな違ってみんな良いなので、己を人と比べないことで、己を知らない人が増えているのではないだろうか。 人と比べるから人は努力をするのであって、自分の事も理解するし、色んな事にも挑戦し、学ぼうとするのである。 皆がそうだとは言わないが、「世界に一つだけの花」の考え方は、個の世界に閉じこもってしまい、新しい世界を知ろうともしないし、古い考えも学ぼうとしない考えに繋がりそうで何となく不安感を感じてしまう。 しょうもないことを言うが、温故知新なんてうんこちんちんなわけである。 昔の映画で「用心棒」と言う時代劇がある。 この映画は今となっては使い古された表現法ではあるが、当時は音響の部分や、効果の部分で随分新しいことをやっている。 人と違うことをしたという意味では、随分と尖った映画だったわけである。 内容も現代っぽくはないのだが、浪人という孤高の道を歩く男が、圧倒的な剣術と知恵で、悪を(または敵を)全滅に追い込むという設定が単純明解でなんとも言えない。 また、死語ではあるが、男の生き様、ハードボイルドな世界を見ることができる。 しかし、北方謙三のそれではなく、どこか飄々として、人間臭みもある。 この映画の主人公は、ある程度の等身大な部分も残しながら、絶対に自分がなり得ない姿を見せ、映画を観る者はそこに魅力を感じる。 集団から抜け自分の力だけで生きていくことも、多くの敵を倒していくこともできない自分を知っているから、この映画の爽快感に酔いしれる。 そしてこの映画自体も、海外で多くのリスぺクトを受け、クリント・イーストウッド主演の「荒野の用心棒」としてリメイクされている。 平等に人と同じことをしても一番になれないことを、この映画を作った人々は知っていたのだろう。 己を知るからこそ、特別な人間を尊敬することもできるし、スーパーヒーローに憧れることができる。 あきらかに僕たちと違う、スーパーヒーローが八面六臂の活躍をするような映画に何も感じなくなったら、心に妙な平等が生まれているのかもしれない。
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