善き人のためのソナタ

監督 フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク
出演 ウルリッヒ・ミューエ
制作 2006年ドイツ

今こそ愛が地球を救うのかもしれない

(2012年01月01日更新)

  • 何で読んだのかは忘れてしまったのだが、海外にこんな話がある。 小さな農家を営む父親の死後、子供たちが家財の処分をしていた。そこへ何通かの手紙が届けられる。 開けてみるとそれは全て感謝状で、NPO法人だの、孤児院だのからで、内容は、多額の寄付による感謝の手紙であった。 その総額はなんと日本円で10億円以上。 子供たちは父親が何故こんなにお金を持っていたのかに驚き、そして母に聞く。 母は、昔宝くじが当たったが、その金に手を付けたのは新しい農具の購入くらいで、そのほとんどに手を付けなかったらしい。 父の遺言で、父が死んだら全額を社会のために有効に使ってくれるところに寄付してくれと言われ、母はそれに従ったそうだ。 そして、父は母に生前こうも言っていたという。 「有り余る金は人を不幸にする」 この話を読んで社会主義だなあ、と思った。 社会主義は色々な解釈や考えはあれど、大まかに言えば市場経済を廃止し、計画経済により社会保証を充実させる全体主義である。 目的は、資本主義社会に生まれたブルジョワジー(富裕層)を生まない社会と、貧困を生まない社会を実現することである。 そういった社会の中では、過剰な金やモノはいらない。 あるのは信仰を持ち、健全に生きる美しさだけである。 この父親は金を持っていなくても、毎日の労働と、少しの飲み代があれば生きていけたのだろう。 このエピソードこそ、社会主義的な考えに根ざした何ものでもないような気がする。 しかし、現実の社会主義の国は大抵は独裁国家で、人々は強弱はあれど、自由を奪われた、抑圧された生活を送っている。 そして、現代社会で勝ち組は中国・ロシアに代表される(元?)社会主義国家である。 かつては資本主義全盛の時代も今は影を潜め、その制度に限界がきているのか、経済的に良い話はあまり聞くことがない。 資本主義社会の中では、実態のないマネーを作り上げ、巨大化したマーケットはやがて縮小にある運命なのか、または世界全体が不安定な時には、資本主義を前提とした民主主義では、世の中を牽引できないのかその変は知識もないのでよくわからないが、資本主義はそのような実社会に不要なマネーを作り上げ、拝金主義的な搾取を行い続けてきた報いを受けているような気がする。 極端な話ではあるが、やはり人間は、土に根を下ろし、風と共に行き、種と共に冬を越えて、鳥と共に春を歌う生活が必要なんだと思う。 大原則は人は平等であり、管理することも、されることも本来あるべき姿ではなく、まして法の範囲の下で営みを規制する、または思想を抑圧するようなことがあってはならないことである。 どのような形であれ、人は自由に生きる権利と、人の自由を阻害しない義務があり、そのどちらも守るべきものである。 政治的にその権利と義務を侵害する行為は、やはりあってはならないことだと思う。 例えて言うならば、昔、天王寺動物園の前の路上でカラオケを歌っていた大阪のおっちゃんおばちゃんを、やめさせる権利はどこにもない。 しかし、天王寺動物園のコアラが、騒音で睡眠障害になる、と言われればそれはコアラに分があるのでやめましょうと言うことになるわけである。(ちょっと違うか) 世界には今も昔も、このたった二つのことが守れないだけで、争いや悲劇が起こる。 そして、そのことに対しての反対の気持ちが、更なる色んな物語を生み出している。 「善き人のためのソナタ」は東ドイツにあった国民統制のシステムの中の、ある男の取った人間らしい行動が物語の主体となっている。 国民統制は、履政者や既得権益を保有する者の権利を守るためのもので、決して国民のためではなかったりする。 本来理想的なシステムでも、運用する人間がダメな場合は、制度自身が不良化するのはよくあることだろう。 しかし、僕たちは、少しずつでも最良の方法を考えていく必要があるはずである。 歌で世界を統一しようとしたジョン・レノンのように、色んな方法を試しても良いのではないだろうか? 考えることで、現在の生活とは異なるスタイルや思想が生まれるのではないか、というのは少し期待が膨らみすぎだろうか。 今こそ愛が地球を救うのかもしれない。
■広告

にほんブログ村 映画ブログ 映画日記へ

DMMレンタルLinkボタン あらすじLink MovieWalker
 VivaMovie:や行へ  関連作品:愛を読むひと