なくもんか

監督 水田伸生 脚本:宮藤官九郎
出演 阿部サダヲ 瑛太 竹内結子
制作 2011年日本

不幸の中で、どこに光を見つけるかは、その人の選ぶ道次第である

(2012年01月01日更新)

  • 家が貧しく、勉強もスポーツも何をやってもうまくいかない。 生んだ親を数千と恨み、学校の先生には名指しで馬鹿にされ、友達も自分の存在なんか気にもしない。 ふと手にあった掃除用の箒を人に向けて攻撃をすると、将来は極道者になり、その箒を股間に持っていって、 「元気、元気、元気な子供は下半身が竹箒」 的なことを言って、周りを笑わせれば、将来はお笑い芸人。 今は遥か、昭和の価値観ではあるが、人格は環境と、周囲の人と、自分の決心で決定するという点では、平成の世も変わりは無かろう。 現実、芸人の中には洒落にならない貧乏や、不幸な生い立ちを背負う者が多い。 人を笑わせるのは、他人の顔色を見て生きていなければそうそうはできるものではない。 男前で子供の頃からちやほやされて、女性にも大人気みたいな人が、他人の目を殊更気にして生きているとは思えない。(僕はそうではないので、ここは推測) ひいては面白い事を言えるとは思えない。 よく大御所の役者などが、テレビでつまんないダジャレを連発するが、これこそお笑いというものが、ある種のハングリーさから生まれる典型ではないかと思える。 役者のように、人生に恵まれたと思える人が作る笑いなどは、ダジャレが精一杯で、お笑いは欠点や、間違いなどを殊更大げさに披露することで成立し、ある種人間の業に根ざしたものが多い。 負のオーラのようなものを纏い、ある一部で冷めた目で見ることができるからこそ、そのような業を見ることができるのであって、どちらかと言うと内に向いた思考パターンが必要だと思われる、そういう意味では極道とお笑い芸人は出発点が似ていて、どちらも負のオーラを持った人が、自分の存在を認めてもらうために、また不幸な自分の境遇を変えるための手段として選ぶ道だと思える。 今のお笑い芸人や極道者を見ると、社会の見方も変わり賛同しにくい部分はあるのかもしれないが、天使の国で生まれる笑いは、偽善と協調であることは間違いがないだろう。 不幸な現実に必死に生を全うする時、そして今、目の前にある世界で生きることが最善だと思う時、そこで生きる人々に媚び、自らの個を消してさえ、その社会の中で生きるための方法を恭順の中に見出そうとする。 気が付けば顔には歪な笑顔が張り付いて、個を出すことや、考えることさえも辞めてしまう。 圧倒的な負の中で、不幸であることをできるだけ感じず、ただ精一杯に自分が生きる道を進む。 「貧乏は循環する」から学問をしなければならない、と言った芸人の母親がいたが、その機会さえも奪われた不幸の中で、どこに光を見つけるかは、その人の選ぶ道次第である。 映画「なくもんか」は、考えれば重い内容を、コミカルにそして洒脱に描かれている映画だ。 阿部サダヲさんや瑛太さんが、さほど不幸には見えなかったが、軽快な語り口は、さすが売れっ子脚本家だと感心した。 竹内結子さんの存在が、不幸に対して愛を与えることで、救いを感じさせ、また物語全般を優しさで包み込む。 卑屈な笑顔が顔に張り付いた男は、いつかその笑顔が溶けて、幸せを感じることで、自然とその嬉しさに涙する。 「なくもんか」という言葉が何だか優しくて、とても嬉しい。
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