アレクサンドリア

監督 アレハンドロ・アメナーバル
出演 レイチェル・ワイズ マックス・ミンゲラ
制作 2009年スペイン

私は哲学を信仰する

(2012年10月09日更新)

  • 知られた話だが、世界中で一番売れている出版物は聖書だそうだ。 ホテルに泊まると、高い確率で机の中に入っているし、そもそも歴史が古いので、トータルで一番売れているのは、何となく理解はできる。 昔学校で習った統計が今も正しければ、キリスト教徒は世界の約35%を占めていて、その人たちが全員聖書を持っているとすると、確かに未曾有の販売数ではある。 因みに2番目はイスラム教の約20%で、両宗派でこの地球上の宗教の過半数を持っている。 日本人にとってこの2宗派の多さが何を物語っているのかピンと来ないだろうが、押さえておきたいのは、唯一神が世界の大半が信じる信仰であることを知っておくべきである。 そもそもキリスト教とはどんな宗教なのか? キリスト教徒が歴史上に勢力を拡大するのは、キリストの死後で、弟子のペテロの布教によって信者を増やしていく。 民間の信仰として市民に根付いたキリスト教だが、最初は当然異教徒として迫害を受ける。 ローマ帝国も最初は手厳しい弾圧を行うのだが、やがて国が衰えてくると、民衆の反乱を防ぐのも目的として、4世紀末にはローマ帝国の国教として保護される。 以降11世紀の東西分裂までローマ世界、とりわけ地中海世界ではその信徒は増え、やがてローマの東西分裂を持って、コンスタンティノーブル(現在のイスタンブール)を中心とする東方教会と、ローマを中心とする西方教会(カトリック)に分かれ、政治的な活動を含めて、中世社会に影響を与えていく。 一方イスラム教は、キリスト教やユダヤ教から派生した宗教で、7世紀頃にムハンマドが作った宗教で、基本は旧約聖書の内容をベースにし、信仰する対象も、アッラー(神)である「ヤハウェ」と呼ばれる、キリスト世界と同じ神を崇めている宗教である。 何が違うのかというと、ムハンマドはイエス以降の預言者(神からの言葉を告げる人、予言とは意味が異なる)として、神が彼らに伝えなかった言葉の全てを、彼に伝えたと考えられており、全ての預言者の中で、一番偉いと思われている。 因みにムハンマドの言葉をまとめたものを「コーラン」と言い、その信徒を「ムスリム」(神に帰依したもの)と云う。 この二つの宗教は同じユダヤ教からの派生を持ち、同じ唯一神の宗教である。 唯一神だから、ギリシャのオリンポス神々や日本の八百万の神と違い、間違いはないし、絶対的である。 この考えが象徴する事件として、地動説を唱えたガリレオが、宗教裁判の結果科学的事実を否定されたのは有名な話である。 「それでも地球は回っている」とかなんとか言ったというやつである。 こういった話が起こってしまうのは、神が唯一で、絶対的なものだから、その神の御技に当てはまらないものは、徹底的に排除されるからで、別に協会が排除しているだけなら良いのだが、宗教が権力と結びついていることで社会的な弾圧や抑制までされることに大きな問題がある。 しかし、考えてみれば、昔は太陽や月、台風や地震みたいな自然そのものがある説明として、人智を超えた神を作り出した歴史がある。 多分分からないものへの畏れとして神を見出し、神への敬意に変えていったのだと思うが、科学はその分からなかったものを、推論を行い検証を繰り返し、その推論の正確性を求める学問なので、その一つ一つは神を否定する行為になってしまう。 神を信じるものからすれば、人智を超えた神が絶対であり人々は神に従うのだから、その存在を否定することは神への冒涜であり、そのような人間は害となる存在で排除されるのは当然と言える。 そもそも神の言葉自体も、科学や技術や精神が進歩する前の世界観で形成されているのだから、科学が進むにつれて分かることも増えてきたと思うので、だんだん矛盾が生じたのであろう。 特に聖書の言葉に従う人々は、すべての急進的な価値観を否定する傾向がある。 モーゼの海が割れる話しなどを本気で信じている人々が、素粒子の世界を同時に信じることは、多分不可能ではないかと思うのである。 唯一神信仰のよろしくない所は、自らの信じる神が最高なので、それ以外を信じるものは異教徒として堂々と差別することができる点である。 差別心というのは困ったもので、特に自分達が特別であると思う人が持つ差別心は、自分たち以外の人間を区別して接する事が往々にしてある。 多分、イスラム教徒からすればキリストはムハンマドより劣る存在だろうし、キリスト教徒からすれば、イスラム教はインチキ臭い宗教なのだろう。 この意識の違いが原因の一つとなり、今も宗教的対立による争いは無くなっていない。 僕は多分無宗派なので偉そうなことは言えないのであくまで個人的な考えで書くのだが、人が遣えるのはやはり人でなくてはならず、神という漠然としたものや、国という形がありそうで、しかしいざという時にしか見えないものではなく、目の前にいる人に遣えるべきだと思う。 人が人を助けるために、学問を習い、知識を積み、検証と実践を繰り返し、やがて大きな成果に結びつける。 人は智を尊び、探求を重ねることで、やがて神の存在を感じるのではないか。 遺伝子の配列や、素粒子の運動法則、はたまた宇宙の発生や、オーロラのような美しい自然現象など、それぞれを知ることで、神が姿を現し、その神は人類に優しく語りかける。 「正しい道を歩き続ければ、新しい世界が開ける」 映画「アレクサンドリア」は、ローマ世界がキリスト教を受け入れ、その信徒が暴徒と化し、ムセイオン(図書館など)を破壊していく中で、知を求めた女性天文学者であり哲学者のヒュパティアの悲劇の話である。 キリスト教の拡大は、唯一神の信仰の拡大であり、あらゆる政治的な権力も、神の前に抗うことができず、神の言葉である聖書が法となり、神の名のもとに理不尽な破壊が繰り返される。 盲目的な信徒によって、その意味することも分からずに破壊されていくのである。 そんな中、ヒュパティアは自らが無神論者であることを公言する。 「私は哲学を信仰する」 人が自由に考えることができず、宗教の名のもとに、本当に行ったかどうかわからない言葉で縛り付け、考えさえも持てなくなるのは、もはや宗教ではなく、奴隷である。 人が生きる上で、自ら考えていく行為は必要である。 人を裁いたり、人を断罪するのは法の役割であり、宗教世界での仕事ではない。 本当の宗教とは、人類の発展に寄与され、自らの考えが他人と融合しても争いを生まない、そういった人としての強さを学ぶべきもので、決して区別や差別を生むためのものではないと思う。 世界の半数を占める一つの神を信じる人々が、差別的な不徳な考えを持たないことを切に願うばかりである。
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