ジュークボックス  スーツ

記号論として象徴するもの

(2012年9月17日更新)

  • 映画「カンパニー・メン」の中で、造船会社の元やり手の営業部長がリストラされ、再就職の面接に向かう時に、奥さんにスーツを見せて「仕事が出来そうだろう」と言うシーンがある。 確かに高身長で、見た目もシュッとしてる営業マンなんかを見ると、心理的にそう思ってしまうのかもしれない。 でも、見た目だけ良くても、何を言っているのかわからんかったらダメだろうと思うのだが、「人は見た目が9割」(竹内一郎:新潮選書)という本によると、人は他人から受け取る情報を、顔の表情55%、声の質・大きさ・テンポ38%、話す言葉の内容7%の割合で受け取っているそうで、話の内容はかなりどうでも良いことがわかる。 社会人を長く続けていると、この調査も少し頷けるところがあって、特に初対面の人と仕事をすることが多い職場の人は頷ける話ではないだろうか? しかし、これはスーツという、大抵が同じ形状の着衣を皆が着ていることが関係していると言える。 そもそもスーツを皆が着る理由は、「様々な価値観を持つ人に対しても、礼節を保つことができ、尚且つコストもかからない」からで、皆が自由に服を選べば、例えば今のB系ファッションで営業に来られてもただ引くだけだし、派手なネイルで営業資料を見せられても、手先がちらついて、資料が入ってこない。 当然、服装は相手にあわせる必要があるわけで、その中で画一的な服装というものがあれば、楽ではある。 同時にスーツを来ているだけで「私は社会人です」というふうに見られるので、中身がいかれポンチだとしても、来社してくれば会話もするし、お茶も出される。 そうやって考えていくとスーツは、昔のちょんまげ文化に似ている気がする。 ちょんまげは簡単に言ってしまえば、「武士」や「士農工商」に属する人間であることが一目でわかる記号のようなもので、特に頭頂部を剃り上げる月代(さかやき)なんかは、「わし武士でんねん」の象徴である。 月代はもともとは、武士が兜をかぶる時に蒸れないために頂上部を剃り上げたことに始まりがあるとされ、平静時は、年長者が年をとり禿げ上がっても恥ずかしくないように配慮して定着したとも言われている。 スーツも同じように、年長者も、ファッションに疎い人も差が出ないようにする配慮として、定着していると言えなくもない。 しかし、そもそもスーツは、軍隊の服装がデザインのもとになっているものが多く、例えばネクタイは、兵士が首に巻いていた止血用のスカーフから由来している節があり、ダブルのスーツも海軍の風よけ用の防護服が元になっている。 採用元は軍服であり、今では機能しなくなった残骸を、格好いいからという理由で身に纏っているわけで、それがいつしか「皆が同じものを着ている安心感」に変わり、今に至っている。 これだけ個性の大切さが叫ばれる現代においても、何となくだがこの存在は奇異に思えてしまう。 スーツは「記号化された画一性」と「見た目の重要性」の矛盾する要素から、いかに個性を出し、見た目を上げて相手に好印象を与えるかを重視することで、人との違いを見せつけることができる。 よくできるサラリーマンが運動をするのも、周りがだらしないカラダになっていく中、「前向きな自分」を見せることができるし、スーツに気を遣うことで、「自らに投資ができる」人間をアピールできる。 画一的なスーツは、様々な記号を作り上げていき、その記号を受け取る側が感じ取り、「この人は仕事ができる」を判断したり、「この人は信頼できる」に結びつけていく。 省エネルックが廃れ、クールビズが流行ったのも、こういったスーツの有用性が関係しており、政治家の人はもう少し、スーツというものが示す記号を知っておく必要がある。 見た目の良さと人の評価の高さは大きく関係しており、大多数がダサいと思うものは当然受け入れられない。 もし、そういった風潮が嫌いで、本当に仕事の能力だけで判断したいのであれば、社員を全員お笑い芸人のジャルジャルばりの白Tにチノパンにしてしまえば良い。 たぶんそれはそれでコントみたいで仕事にはならないだろうが、どこかの国のマスゲームのような統一性は感じられて、全員忠実に働きそうな気はする。 それはそれで宗教っぽくて胡散臭いか。
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