しりとり

方言孤立変遷論

(2012年1月更新)

  • 子どもの頃にやったしりとりで、「カヌー」とか「マナー」のような長音が最後に付く時に、「まなあ」というように母音で続けるか、無視するかでもめる。 もめると言ってもそこは子どもなので、その遊びの中のボスみたいなのが「こうだ!」と言えばどちらとでもなるのだが、本当はどちらが正しいのだろうと調べてみると、どうも地域ごとで違うらしくどちらが正しいのかはっきりしないようだ。 しりとりくらいメジャーな遊びでも、ルールがはっきりしないとは、なんとなく違和感が残る。 メジャーな遊びついでに、じゃんけんの掛け声も全国的には「グー」「チョキ」「パー」だが、これも地域で言い方が違うらしく、特に「チョキ」は「チー」とか「ピー」とか、異なる呼び方をする所もあるらしい。 なんでこんなことが起こるかは、金田一春彦氏の「方言孤立変遷論」が説明として最もしっくりくるような気がする。 金田一氏によれば、言葉は中央(都)から伝播されるのだが、地方に行くほど影響が薄くなったり、または伝わらなかったりするため、その地方独自に新たな言葉が生まれやすいということのようだ。 「チー」と発する所も北海道に寄っているそうなので、何となく当たっていないわけでもないようだ。 また、この考えの面白いところは、寧ろ言葉の独自性は、文化の伝達が遅い過疎部に特に顕著に現れるという意味で、都会の言葉よりも地方の言葉が、言葉の発展から考えると独自性があるということになる。 しかし、ジャンケンが生まれたとされる江戸から明治期ならいざしらず、現代社会はテレビやネットで即座に情報が伝わる情報化社会で、このような孤立は生まれにくいんじゃあないかと思う。 今後は言葉に都会も地方もなく、寧ろ地方の言葉の中で、際立った言葉が中央に登ってくるというようなことが起こるのではないかとさえ思う。 ズーズー弁の「しばれる」とか沖縄の「なんくるないさー」とかが格好いいという日も来るのかもしれない。 実際に都会で、若者文化の中心と思われる渋谷で作られるギャル語は、西日本では聞くことはほとんど無い。 ある種小さなコミューンで成長しているように見受けられる。 ある集団で言葉が作られ、別の文化に溶け込む訳ではなく、その集団にしかわからない言葉を形成する。 例えば話す言葉をわざと反対から話す逆さ言葉や、ギャル語やお姉系言葉のような、特異なコミューンの言葉が巷には反乱している。 まるで都会の方が孤立変遷をしており、地方の方が言葉は安定して広がっているように見えなくもない。 それだけ今の世の中は言葉の全国伝達がなされやすく、地方での孤立変遷をしにくいと言えるのかもしれない。 「どんだけえ」は地方では生まれない、得意なコミューンの人たちが使う言葉で、その言葉を知らないお姉系コミューン以外の人に「どんだけえ」と言っても、リアクションに困るだけである。 知らない人が聞く「どんだけえ」は滑っているギャグみたいなもので、その言葉自体に意味はないからである。 言葉の違いはそのまま文化の違い出るように、強い方言も最近は関西と沖縄以外ではあまり聞かれなくなった気がする。 そういった意味では、日本全土の言葉の統一がなされる日も近く、新しい言葉でさえも、都会の牽引によって生まれると思うと、なんだかつまらないなあと思うわけである。 個人の個性も良いが、言葉の個性も大切にしたいなあなんてことも思うわけである。 そういえば言葉の個性で思い出したのだが、僕が大学生だった頃、ある大学に行っていた友達と麻雀をしていた時、事あるごとに「妻が走ってつまラン」とか「タマが走ってたまラン」と言うので、それが何か尋ねると、「大学で流行っている」と返ってきた。
    どこのコミューンでもつまらない奴は居るもんだと思った。 どんだけえ。
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