沈黙

監督 マーティン・スコセッシ
出演 アンドリュー・ガーフィールド リーアム・ニーソン
制作 2016年 アメリカ

宗教とは服のようなもので、着続けることでそれが体の一部のようになってしまう

(2017年08月30日更新)

  • 小学校の時の話なのだが、友達が突然当時まだ出始めのムースの整髪料で、髪の毛をセットして学校にやってきた。 当時はチェッカーズというグループがいて、彼らのやっていた前髪を鼻先くらいまで伸ばすのが流行っていたのだが、友達もそのような髪形をして学校に来たのである。 小学校の子どもたちは、その変身に戸惑い、ついには彼をからかい始める。 友達だった僕はそのからかいの輪には入らなかったが、見て見ぬふりをしていたのを憶えている。 今思えば、なぜ髪形をセットしてきただけでからかわれるのか不思議なのだが、そこには子ども独自の差別の構図が見え隠れしている。 このエッセイでも何度か書いたのだが、差別というものは区別から発することが往々にしてある。 例えば肌の白い集団の中に肌の黒い集団がやってきたら、その集団同士はぶつかってしまう。 それはお互いの見た目の違いから区別が始まり、その違いをお互い受け入れられずに衝突するわけである。 また前置きが長くなるので先に言うのだが、今回の映画エッセイは隠れキリシタンについて描かれた海外の作品で(めずらしい!)、どちらかというとうんちくを書くのに適した内容でもあるので調子にのって書くと、キリスト教の迫害も同じ構図から始まったように思う。 歴史的にはローマ帝国の皇帝ネロによるキリスト教徒の迫害が有名なのだろうが、実際は皇帝ディオクレティアヌスの勅令によって、キリスト教徒はその居場所をなくなったとされ、その理由はローマ帝国への反抗にあったと学校では習う。 しかし、想像するに、キリスト教徒の迫害もそもそもは市民から出た違いを認めない差別心から来たものだろうと想像できるわけである。 例えば、キリストにはミサというものがあり、教徒が集まっては何か談合みたいなことをしている。 人づてに何をしているか聞くと、一人の神をあがめて何やら神のすばらしさを説いていると言う。 ローマ帝国は当初多神教で、且つ皇帝を神とする国家なので、この行動自体がローマの善良な市民は変に思うわけである。 しばらく眉根を寄せながら見ていると、今度はそのミサの中の話にイエスとかいう人物が復活をして人々を救うという、よくわからない物語を吹聴しているということが漏れ聞こえてくる。 何から救うのか? 皇帝の圧政からか?それともクーデターの宣言なのか? 疑心暗鬼の中、色眼鏡で見たキリスト教という名の異教徒たちの姿はさぞかし奇妙奇天烈に見えたかもしれない。 かくしてこの異形の物たちは権勢に影響を与える存在となるのに時間もかからず、数百年に渡る迫害を受けることになる。 僕は個人的にこの迫害があったからこそ、この宗教が世界規模の宗教になったと考えているのだが、奇しくもキリスト教が伝える博愛の精神があれば、こういった迫害も無かったように思うと、宗教とは人間ができないことを伝える訓示だととらえることができるのは皮肉だろうか。 その点日本はこういう差別意識や宗教弾圧が無かったと思っている若い人も多いのかもしれないが、そんなことは当然ない。 過去日本にも被差別部落という差別があり、「人にあらず」な人々を平然と差別していた歴史がある。 関東大震災の折には、朝鮮の人が井戸に毒を投げ込んだと言う意味の分からないことで彼らに暴力をふるってみたりもしている。 こういう話は近代でも起きている問題であり、今の社会では考えられないような、差別対象の人々を泥地などの作物の育ちにくい土地に住まわせ、その土地に住んでいる人を差別するといったものもあったようである。 日本も人間の作った国家という意味では、世界中の国と変わらない同じような歴史を持っているのである。 という事で、今回の映画は遠藤周作が原作という、少し背筋を正しくしてしまう「沈黙」という映画紹介です。 題材は江戸前期で舞台は長崎の隠れキリシタンの村である。 イエズス会から日本で棄教したとうわさされる神父を探しに二人の若い神父が日本にやってくる。 命の危険さえも危うい日本で、彼らは他には無い日本人の信者に会い、命さえ投げうつその信仰心の高さを知る。 しかし、二人の神父たちはその過酷なまでの弾圧に対し、やがて自らの神を疑い始める。 何故彼らはこれほどまでに信仰心を持ち、命さえ投げ出しているのに、神は何もしてくださらないのか? それは試練なのか?それとも…。 疑問を抱く中、やがて神父も幕府に捕らわれてしまう。 捕縛された牢獄の中で、神父は穏やかな気持ちを持ち直すが、弾圧という厳しい現実の前に神父の心は一つの境地に達する。 気になる方は小説を読むか映画を観てください。 宗教とは元来人を救うための物である。 救うための宗教が時に、人の業の深さゆえに逆に苦しめることになる。 しかし、一つだけ言えることは苦しい現実があるからこそ、人はその生に意味を求めようとして、その意味を宗教がもたらすことができれば、人はその生に喜びが与えられる。 この映画はキリスト教弾圧という一つの事実に対して、同時に宗教が果たすものとは、人を救う事であるという至極当たり前のことに対して、母がクリスチャンでもあった遠藤周作の一つの答えだったようにも感じられる。 この映画はキリスト教の一つの歴史を描いた物語ではない。 キリスト教を題材にした、宗教の根幹の話であり、同時に神というものを解釈した映画でもある。 神は権威ではなく、生の喜びや理由を得るための一つの道具にしかすぎず、作中に話されるように、人間以上の存在はいないという、ある種宗教を根底から揺るがすようなものを、主題として持っている。 殉教者はよくわからない神ではなく、神父のために命を落とし、神父が崇拝するその宗教を崇拝する。 遠藤周作が例えたように、宗教とは服のようなもので、着続けることでそれが体の一部のようになってしまい、捨てられない自分になってしまう。 それを脱ぐことに命を懸けることの意味を、映画では何度も説いているような気がする。 僕はあいにく決まった服を持たないし、服に対して無頓着である。 服を決めない無粋な人生が良いのか悪いのか?未だに分からない。
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