ドッグヴィル

監督 ラース・フォン・トリアー
出演 ニコール・キッドマン
制作 2003年デンマーク

後味の悪い映画

(2015年01月29日更新)

  • 漫画「ジョジョの奇妙な冒険」(集英社)の荒木飛呂彦さんのデビュー作で、魔少年ビューティーというものがある。 この漫画の中で、ある家族に潜り込んで、その家族を食い物にする一家の話が出てくる。 最初は交通事故でソフトに車を運転していた家族に取り入り、あらよという間に家に居座り、その家を自分のモノにしてしまうという話で、なかなかトリッキーな内容である。 漫画自体は僕が少年時代のものなので、かれこれ30年近くは経っていると思うのだが、最近この話に似た犯罪を耳にした。 内容は、ある家族に入り込んだ女が、一家の娘を取り込んで、娘に親を殺させるというような、なんとも痛ましい事件なのだが、正直漫画よりクレイジーである。 こういった事件を話す場合に、必ず出てくるのが、マインドコントロールという言葉である。 過去テロ事件を起こした宗教団体が行ってきたもので、執拗なメッセージの繰り返しを行うことで、人間の判断基準さえ欠落させてしまうというものである。 そもそも、人を殺そうと思ったことのない僕たちからすると、何で物事の善悪のつく大人が、どこの馬の骨かわからない人に支配されるてしまうのか、その経緯が皆目見当がつかない。 拒否しようと思えばできたはずなのに、何故人を殺してしまう所まで突き進んでしまうのか? その分からない精神性に対して、マインドコントロールという言葉を使い、殺人の説明を行っている。 話は少し変わるのだが、映画「フラワーズ」の項でも書いたが、封建制度で家長制というものがあって、日本では家単位で法があり秩序があった。 この家長制度については、手塚治虫先生の漫画で、奇子(あやこ)でその奇妙さが描かれている。 少しだけ内容に触れると、家長制度の中でねじ曲がった法が天外家を数奇な方向に向かわせるという、なかなか層の厚い話しなのだが、昨今ではこういった、小さな支配により人間を抑圧する事件を耳にする。 人が人を支配するのはやむを得ないことではあるが、その支配の構図が経済的な結びつきや、師弟の間ではなく、唯の理不尽な恐怖であることに対して、どうしても疑問を持ってしまう。 このような家長制度では自治権を持った家長が時に行き過ぎる行動をとってしまう。 例えば昔は、通常の人間と異なる子どもが生まれた場合、その子どもを人に見せないように、ずっと家で生活させたり、不祥事を表に出さないよう、隠蔽工作を行うなど、不法行為が行われていた。 これも家を中心に考えた場合の行為で、言わば世間体というものを最重要においた結果の行動と言える。 これも最近(今は2015年1月)になってよく聞くようになったのだが、インドでは複数の男性によるレイプ事件が多発しているらしい。 特に社会情勢も不安定でないにもかかわらず、このような報道がなされるのは、多分絶対的な件数が増えているわけではないからではなく、今までも多かったのだが事件化してこなかったことが考えられる。 要は、被害者が公表しないか、そういう事件に対し世間が目を向けないかどちらかだと思うのである。 この問題も家長制度が関与していると考えられる。 インドでは家長の権限も強く、世間体を重視する家長に、なかなか言い出すことができない女性が多いからだと推測される。 被害者なのにも関わらず、周りはその被害者にも冷たい目を向ける。 このことが大なり小なり事件の発覚を遅くしてきたのではないかと思うわけである。 こうやって書いていても思うのだが、やはり人は人に使えなければならないわけで、人が使えるものが「家」や「権威」になってしまうから、おかしな方向に行ってしまう気がするわけである。 ということで、今回は後味の悪い映画ベスト10に入る「ドッグヴィル」である。(自分調べ) 物語の始まりは、美しいニコール・キッドマンがドッグビルという辺鄙な村にやってくる。 当初村人は彼女を受け入れ、その美しさから、少し距離を置くのだが、彼女の献身的な態度により、いつしか村人も彼女を受け入れるようになる。 しかし、彼女が強盗事件に加わって追われていることを知ると、村人の様子が変わり、やがて彼女を奴隷のように扱う。 そして衝撃の結末に話は向かうが、ネタバレはこのサイトの本意ではないのでそこは映画を観てください。 この物語は全て舞台上で行われているように映画が進む。 もっと言うと映画自体に場所の描写がない。 白い白線のある、暗い舞台を中心に話が進められる。 奴隷のように扱う村人たちは、その狭いコミューンの中で、「他人がやっているから」と、露骨に態度を変えて、やがてその行為はエスカレートしていく。 人間は周りを見て自分の行動を決める。 割られた窓には、より一層の破壊が予定されている。 なんともおぞましい話である。 人の秩序というものは、常に暴力によって決定づけられてしまうように見え、同時に人の愚かさが目立ち、単純に嫌な気持ちになって映画を見終える。 この物語では、支配の構図が変わる。 最初は美しい女に対しての、洗練された美への支配から始まり、次に村人の集団による支配となり、最後は力による支配が描かれている。 支配はその都度人により変化をする。 この映画が特異で、また嫌悪感を禁じえないのは、単純に人の本質が具体的に描かれているからだと思う。 人は大きな権威を矛にして、親を殺すこともできる。 人は虐げられたものに対し、より大きな悪意を行うことがある。 できればこれが本質では無いように、人生を過ごしていきたいなあと思うが、あなたはいかがだろうか?
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