シャッターアイランド

監督 マーティン・スコセッシ
出演 レオナルド・ディカプリオ
制作 2009年 アメリカ

人はあまりにも脆く壊れやすいことを観る側に提示して映画は終わる

(2020年05月06日更新)

  • ただの自分の不勉強なのだが、精神病院というものがあまりよく分からない。 例えばアメリカ映画を見ていると、セレブリティな主人公がかかりつけの精神科医にセラピーを受けるシーンを見かける。 サスペンスなんかだとそのシーンが後で伏線になったりするのだが、日本人の僕にとっては、そのシーン自体になじみを感じない。 今でこそ町を歩いていてもきれいな病院だなあ、美容整形かなあとか思ったらメンタルクリニックだったりするので、周りにも精神病院はあるのだが、いったい何をするところなのかはよく知らない。 勝手なイメージだと悩みを言ったり見た夢を話すと、あまり表情のない先生が、あなたはこういう人です的な、根拠の確かめようのない分析を言われて帰る所なのかしらんと思うのだが、多分実際は違うのだろう。 一方で映画では精神病患者は犯罪と親和性が高い。 過去にあったサイコ映画で、多分90パーセントくらいが精神疾患者を題材にしているのではないか(自分の適当調べ)。 一般的にも凶悪事件の際に精神鑑定を行うなんてことをよく耳にするので、多分精神病=犯罪みたいな図式がどうしても浮かんでしまう。 考えてみれば、常人だと理解できない殺人などの凶悪犯罪に手を染めるというのは、正常ではない状態になっているという意味においては、精神疾患かハードな宗教かどちらかだろうとは思ってしまう。 しかし精神疾患による凶悪事件が増えたのかと言われれば、実際のところ昔と今では大きく差はないような気がする。 例えば虐待事件が近年問題になっているが、虐待は今に始まった話ではない。 そもそも虐待と認識される事案がまとまったのも最近の話であって、昔のほうが圧倒的に暴力による虐待は多くあったと思う。 その多くは家長制度や貧困などの今とは違う社会事情もあって、虐待による被害などが表に出なかっただけのことで、ある意味社会が認めていた犯罪といえる。 つまりは虐待という定義が定まったことにより、虐待というものが数値として顕在化したことで認知されただけのことだと思うのである。 精神疾患の犯罪の場合はその犯人に対し病名がついておらず、気狂いなどの好ましくない言葉によってくくられていただけではないかと推察される。 もちろん昭和期にも精神鑑定は行われて、精神喪失者の刑軽減みたいなものもあったようなので、まったく加味されていなかったわけではないだろうが、社会が未成熟な中ではそういった分析自体きちんとされていなかったのだと思う。 ただ社会が複雑化した中においては虐待よりも精神疾患者の方が数が増えているようには思う。 実際僕はプログラムの世界で生活しているのだが、この世界は人と接しないから気が楽そうに思われているようだが、実は精神疾患者が多い。 鬱で会社に来れなくなる人や追い込まれて辞めてしまう人が、特に若い方で多いように思う。 これはプログラムの仕事は意外と一人が背負っていることが多く、またわからないことが多く、同じところを数日間考えるということがざらにある。 まるで賽の河原の石積のように、積んでは崩す積んでは崩すを繰り返すこともある。 結果として納期を守れず、営業やスタッフからはおしりをたたかれるので、とにかく山を切り崩しにかかるのだが、分からないものは分からない。 開き直って分からんので待てと言えばよいのだが、大抵の人はその待てが通用しないし言えなかったりする。 決まった時間やれば決まった成果が出る仕事でもないのでこの辺が辛い所だが、仕事なので頑張るしかなく、頑張りすぎた結果精神を消耗するのかもしれない。 世の中の仕事は昔と違い、右から左に物を移すという単純な物ばかりではないので、こういう精神的にしんどくなる仕事は増えていくだろう。 しかし精神病院の需要が劇的に高まるかと言われれば、ちょっとよくわからない。 最近では随分精神の病も認知されつつあるが、我慢強い日本人にセラピーを受けるという壁は高い気がするからである。 どちらかと言うと社会全体が、仕事だから死ぬまでやり切れ的な古い根性論を捨てて、無理なものは無理と笑顔で答える事ができるようにしていく必要があるのかもしれない。 という訳で今回は「シャッターアイランド」でマーティン・スコセッシ監督とレオナルド・ディカプリオの良作生産コンビによる映画である。 映画全般には奇妙な違和感が存在する。 例えば序盤から随所に出てくる主人公の既視感や会話の妙な不自然さ。 最初はサスペンスのための盛り上げかとも思うのだが、決定的なシーンで、行方不明になった女性と同じセラピーを受けた女性が水を飲むシーンがあるのだが、何故かコップを持たずに水を飲み干すシーンがある。 しかし次のカットではコップを置くシーンがあり、一瞬とうとうスコセッシもボケたかなどと、悪い思いが浮かぶのだが、これもちゃんとした伏線となる。 全般に漂う違和感はやがて真実が打ち明けられた時にすべて理解される。 過去精神異常について描かれた映画は多く、良作が多い。 例えば若き日のアンジェリーナ・ジョリーが熱演した「17歳のカルテ」では、精神病院に入院した若者の心の痛みを描き、彼女はアカデミー助演女優賞を受賞している。 「カッコーの巣の上で」では嘘で入所した主人公の目線で、精神病棟の劣悪な環境とその住人達を描いた。 主演のジャック・ニコルソンはその後精神異常者がよく似合う俳優になった。 精神疾患を取り扱う映画は、演者の実力に左右される気がする。 ただ気がふれた役を演じればよいのであれば簡単そうだが、映画が観る人の心に入るためには人の弱さや悲しみを見せる必要が出てくる。 シャッターアイランドの主人公も弱さや悲しみの中で苦悩し、結果一つの結論を映画の最後に見せる。 彼の選択が正しいかどうかは観る人にゆだねられるのだが、人はあまりにも脆く壊れやすいことを観る側に提示して映画は終わる。 このシーンのディカプリオは十分にその仕事を果たしたと言える。 ディカプリオは若い日に「ギルバート・グレイプ」でも精神異常の役を演じている。 時を経てまた違った役で見せた演技がこの映画のもう一つの魅力かもしれない。
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