スリー・モンキーズ

監督 ヌリ・ビルゲ・ジェイラン
出演 アルジャン・ケサル
制作 2011年 トルコ

見ざる言わざる聞かざる

(2012年03月25日更新)

  • 自己犠牲という言葉がある。 昔のヤクザ映画なんかではよくお見かけするシーンで、親分が対立する組員を殺しちゃったりした後に、 「おい。変わりにつとめに出とけ」とか言われて三下に指示すると、 「ヘイ」と頭を下げる三下に対して、 「これでイロでも抱いてこいや。長いつとめになるけんのう」とか何とか言いながら、財布からまとまった金を出して渡すと、再度三下は頭を下げて夜の街に消えていく。 「わあ格好いい」とはさすがに思わないが、犯してしまった罪を人にきせるという場面を人生では何回か経験する。 学生時代の話だが、ふざけていた友達がやりすぎて教室の窓ガラスに頭をぶつけてしまいガラスを割ってしまった。 先生が来て怒られそうになったので、苦し紛れに誰かにガラスで頭を殴られたと言い出したので、思わず噴出してしまった。 そんなバイオレンスな出来事はそうそう学校では起きないのである。 まあ、苦し紛れの嘘はともかく、自己犠牲というものには絶対的な力関係が存在する。 先の例のように、組長と組員というヒエラルギーの中で、弱いものが代理で罪をかぶる訳で、そのグループの何でもありの関係こそが、ヤクザの怖さでもあるわけである。 そんなことを思っていたら、会社でも同じようなやり取りがあって、聞いた話だが、営業成績が良い社員がスピード違反とかで免停をくらいそうになったときに、代わりの成績の悪い人間が運転していたことにするなんてこともあるそうで、レベルの低いしょうもない決断ではあるが、売れない当人にとってはそれがベターだと思うのかもしれない。 自己犠牲はそもそも、守らなければいけない人間がいて、その人間を守るために行われることが多い。 戦国時代なんかは影武者がいて、主君に変わって代わりに命を狙われる。 江戸時代には毒見係りなんて仕事もあった。 思えば命が軽い時代である。 いかにも人間らしいしがらみに縛られた行動だと思うのだが、ミツバチなんかも巣を犯されそうになると、大量のミツバチがその敵に抱きついて発熱させて相手を熱死させ、自らも死んでいくそうである。 壮絶な世界だが、結果組織が守られ、ミツバチの種が保たれるわけである。 動物の自己犠牲は、種を守るためという大きな大義の前になされるが、人間の場合は権力などのいらない要素が入るので、その行動に美しさを感じないのかもしれない。 物語で自己犠牲が美しく描かれることがあるのは、組織としての個を考えるときに、自らを犠牲にしてでも大切なものを守り抜こうとする精神に、日本人が共感しやすいからかもしれない。 先の大戦で行われた特攻や玉砕攻撃も、日本人のDNAに刻まれた美化された自己犠牲の精神が存在しているから起きたのだろう。 しかし、その精神を利用して、権力の維持を成すけがれた存在があるからこそ、こういった自己犠牲の考えは持つべきではないのかもしれない。 ちょっとテーマが重くなりそうだったので、少しライトな感じに軌道修正するが、代理友人という仕事があるそうだ。 結婚式とかで友人が少ないと相手とのバランスに苦労するという理由で、代理友人に来てもらって、それこそ友人代表で、エピソードを拵えてもらったりするそうだ。 そんなことまでするなら結婚式なんてしなけりゃいいのにとか思うのだが、嘘をついてまでやらなければいけないしがらみがあるのかもしれないと思うと、友達の少ない僕も人事ではないなあと思ってしまったりするわけである。 そんなこんなで今回の映画紹介は「スリー・モンキーズ」という、最近秀作が多いと評判のトルコ映画である。 内容は簡単に言うと金持ちが犯した罪を被った家族の崩壊する姿を描いた映画である。 トルコ映画はまだまだ映画の取り方が確立していないのか、全体的にゆっくりな描写が多いため、油断すると「あれ?今僕は何を見せられているんだ?」的な感覚に陥るのだが、それでも異国の文化だと思うとそこまでしんどくはない。 映画の詳細をもう少し書くと、映画の中の罪を犯した親父が、金で罪を被せた親父の女房とねんごろになってしまうのだが、それをニートの息子が怒るシーンがある。 まあ息子が怒るのは当然なのだが、この一家は始終何してんの?感が強い。 全員が「もうちょっと頑張れや」と思ってしまう。 タイトルである「見ざる」「言わざる」「聞かざる」(三猿)は、家族を守るための行動だったのだろう。 しかし、くさいものに蓋をしても結局は人の心の内はごまかすことはできない。 ダメなニートの息子は、上手くいかない自分に嫌気が差して、自分を分かってくれるだろう亡くなった弟の幻影を見る。 弟の相貌は、ダメな兄を見つめ、何も言わない。言うべき言葉を持たないのだろう。 悪いところは見ない、言わない、聞かないが人間関係や出世の秘訣ではあるが、家族という絆の中で、果たして全てを無かったことにすることは有効なのだろうか? 全てを分かり合えるからこそ家族なのではないか?と考えてしまう映画である。 それは日本もトルコも代わりは無いのかもしれない。
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