リメンバー・ミー
監督 リー・アンクリッチ
出演 アンソニー・ゴンザレス
制作 2017年 アメリカ
死というものの正体は一体何なのだろうか
(2018年11月08日更新)
- このエッセイで僕は幽霊はいないと書いた。 単純に僕自身が見たことがないのと、僕が物理に少しだけ明るいからで、幽霊を物質的な視点で見たときに解せないことが多くあることが、幽霊がいないという論拠だから幽霊はいないという結論を付けている。 見たこともなく、なんだか怪しいなあと思うものを否定することについてはそんなに悪いことではないと思うのだが、しかし実際のところ世の中には幽霊話があふれかえっているので、幽霊を肯定している人がただの嘘つきか、信じ込みやすい人なのか、脳のバグが起きた人か、はたまた実は幽霊は本当に存在するのか、その真意はよくわからない。 多分僕自身が見て、その現象について幽霊であると結論付ける物証がなければ、なかなか信じないというだけのことである。 僕は幽霊はいないとは思うのだが、いてもいいとは思っている。 僕が嫌いなのは、幽霊の存在を利用して、霊感商法的なやり口で金を巻き上げようというやり口が嫌いなだけで、幽霊も宇宙人も、妖精もミッキーマウスもいたらいいなあ、ファンタジーだなあとは思っている。 だから死んだ人だけの世界があって、別の人生を歩んでいるという設定など映画で見かけた時は、子どもみたいにこんな世界は存在しないと、頑固一徹に一蹴する訳では断じてない。 ということで最近愛するペットが死んでしまったので、今回のエッセイは映画「リメンバー・ミー」に絡めた生き死にのお話です。 僕は趣味で熱帯魚を飼っている。 住み慣れた関西を離れて「だがや」の町、名古屋に引っ越した時に、かねてから夢だった熱帯魚の飼育を始めたので、それこそ15年以上続いていることになる。 長い趣味である。 最初に飼育したのは、シルバーグラミーというきれいなアナバス科の魚とザ・熱帯魚のエンゼルフィッシュで、初めての熱帯魚セットみたいな水槽を1万円くらいで購入して始めたのだが、数日で魚は全滅してしまう。 がっかりして新しい魚を買おうと熱帯魚屋さんの水槽をつらつら眺めていると、底のほうにいるナマズのような小さい茶色がかった魚が数百円程度で売られているのを見つけた。 聞けば強い魚で十年以上は生きるということだったので、とにかく死ぬのは嫌だなあと思っていたのでその魚を購入して育てることにした。 最初は体も小さく、少し大きめの緑色の人口餌の上に乗っかっておいしそうに食べている姿が可愛くて、それから毎週のように水替えをして、けなげに世話をした。 その甲斐あってかその魚は1年も経たずに大きくなり、やがて水槽いっぱいになってしまったので、新たに水槽を買いなおしたりもした。 飼い方に慣れて魚が増えてくると、最古参のその魚をたらいに入れて外で飼ってみると、ますます大きく育ち、まさに主(ぬし)のような存在でずっと我が家の水槽に鎮座していた。 引っ越しの際には業者に搬送を断られたので、車の後ろに水槽を積んで引っ越しをしたりもした。 車の中で元気にパシャパシャと暴れて、車を水びだしにしたのを思い出す。 天気の良い日は水槽から出し子どもたちに触らせたりもした。 それから15年強経ち、2018年11月8日までその魚は生きてくれた。 家に帰ると魚より年齢が下の娘が魚が死んでいることを僕に告げた。 大きな体躯を水槽の底に沈め、いつも水替えをするときに暴れて動かしたひれは固く固まり、目は生気をなくして白く濁っている。 ここ最近餌もあまり食べていなかったのを知っていたのであまり動揺はしなかったが、ものすごく寂しい気持ちになった。 よく生きてくれたなあと感謝をしつつ、空いた水槽で泳ぐ他の魚を眺めて見るが、いつもいた所にいない寂しさはしばらく続きそうだ。 こういった去る者への悲しみは、ペットであれ人であれ、悲しさや寂しさは同じだと思う。 とは言え生まれ出たものはすべて終わりに向かって歩き出すものなので、終わりを恐れていたら何もできない。 だから人は終わりを迎えたものを次の場所へ送り出し、残されたものは失ったものにいつか会える日を思い描く。 そんな魂が安寧に過ごせる世界があるということを信じたいという気持ちは、誰しもが持っているのではないだろうか。 一方で生あるものが死にゆけば後に残るものは無でしかないということも理解をしている。 だから今を十分に生きていくことが失われたものから学ぶ教訓になるのだと思う。 映画「リメンバー・ミー」で描かれる世界は、死と生を描く映画として、独特な死生観を持っている。 描かれる死後の世界は、現生の人々から忘れ去られると死者の世界からも消失してしまうという、死後と現生が人の心の中でつながっているのである。 少年は死者の世界で自分の父親の存在を知り、失った者の大切さを学ぶのだが、失われたものの大切さやその思いは、どこかで生きているものの糧となり次につながっていくという、連綿と作られてきた命のリレーを感じさせる。 死もいわば生の一部であり、愛する者の死をもって残されたものは死というものを学び取り、これからどう生きていくべきかを考えるようになる。 死というものはそれだけ多くのインパクトを与える出来事なのである。 魚を水槽から出して処分していると、どこぞの家から魚のおいしそうなにおいがした。 その匂いに反応してか息子が「この魚って食べれるの?」と聞くので「現地では食用やで」と答える。 よく考えてみると、今処分している魚はある場所では何の感慨もなしに食用として命を削られているわけで、それが我が家の水槽に長くいたことで、こんなに寂しい感情を持たせるというのも不思議である。 死というものの正体は一体何なのだろうか。
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