ももへの手紙

監督 沖浦啓之
出演 美山加恋 優香
制作 2011年日本

神様に厳しさや畏れを持たずに、どこかで癒しのようなものを感じているのかもしれない

(2012年12月15日更新)

  • このエッセイのどこかにも書いたが、日本は多神教の国である。 そもそも日本は仏教国であると思われており、それも特に間違いではないのだが、同時に神道の国であることも理解しなければならない。 仏教は古来インドから朝鮮半島を渡って伝来され、日本での仏教の定着は、天武天皇から聖武天皇のころくらいの律令国家としての体をなし始めたくらいで、仏の権威によって国を治めようという動きに基づいて、日本が仏教化していったと学校で教わったと思うが、日本の面白いところは、神道という日本書紀・古事記のような神話(記紀神話)に基づく信仰が並列にあって、他の宗教も受け入れていったところにある。 言葉で表すと神仏習合というもので 、例えば記紀神話に出てくる神武天皇が天皇家の始まりである神道の具現者である天皇が、政治的な失脚なんかで仏門に入ることは歴史の中でもよく耳にしたと思う。 考えてみれば天皇が仏門に帰依するというのは、ローマ法王が法王を辞めてダライラマになるようなもので、全く宗教の垣根を越えてしまっているのだが、長い歴史の中で、仏教の神様と神道の神様を融合させる方法をあみだしたことで可能になった、言わば離れ業をやってのけている。 面白いのは、これも学校で習った本地垂迹という考え方で、例えば仏教の神様が日本に入ってきた時に、神道を辞めて、そこらじゅうの神殿を壊すのはどうかと思うので、仏教の神様に神社に入ってもらおうと考える。 その際に、仏教の神様が日本にやってきて、日本の神様として垂迹(仏・菩薩が人々を救うため、仮に日本の神の姿をとって現れること)されたのだと考える。 幸いに仏教の神様と日本の記紀神話の神様はどこかしら似ている。 かくして大日如来は伊勢神宮に入って神様として祀られることになる。 この感覚はたぶんイスラムの人には余り理解されないと思うが、日本人には何となく理解できる感覚で、日本人は精神世界でもどこか合理性を持った思考があって、他の宗教を差別しない、平たい考えを持っている。 なので、世界宗教の中でも稀有な、神様の同居が成し得たのであって、今でもクリスマスの2週間後には門松を立てて新年を祝ういい意味でのふてぶてしさを持っている。 この考えは決して、日本人が精神世界を軽んじているわけではなく、争いを好まず、差別を作らず、また合理的なモノの考えを行うことができる証明ではなかろうかと思うのである。 映画「ももへの手紙」に描かれる世界は、死後の世界と妖怪である。 瀬戸内海の群島に引っ越してきたももは、3人の妖怪と出会う。 妖怪は堕落した元神様で、今は亡くなった父親に変わり残された家族を見守っている。 偶然彼らを見ることができるようになった主人公の女の子は、妖怪達に振り回されてばかりいるが、最後は妖怪達に助けられ、ももは奇跡を見ることになる。 物語は「千と千尋の神隠し」のようなスピリチュアルな物語ではあるのだが、設定として面白いのは、元神様の3人が妖怪として姿を落とし、しかし神の使いのような仕事をしているところだと思う。 キリスト世界では堕天使は悪魔になるのだろうが、この映画の元神様は、何人もの人間の頭を丸呑みした悪党でさえ、のうのうと生活が出来ている所に寛容さとぬるさを感じる。 しかし、この寛容さが独特のやわらかさを生み出しているので、映画で見る分には大変良いのではないかと思う。 日本人はどこかでのんびりしたところがあって、神様に厳しさや畏れを持たずに、どこかで癒しのようなものを感じているのかもしれない。 この物語の中にもどこかしら残虐性のようなものが言葉の中で紛れているのだが、そういったものは物語の核に据える事はない。 そこに神というものの存在さえも非権威を感じるわけで、この考えこそが日本に本地垂迹をなじませた要件ではないかと思うのである。 しかし、そんなのんきな日本人ではあるが、一方に重大な事件を起こした人間を死刑にする国でもある。
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