メランコリア

監督 ラース・フォン・トリアー
出演 キルスティン・ダンスト シャルロット・ゲンズブール キーファー・サザーランド
制作 2011年デンマーク=スウェーデン=フランス=ドイツ

明日、世界が滅びるとしても 今日、あなたは リンゴの木を植える

(2012年09月05日更新)

  • 最近地球滅亡が熱い。
    マヤ文明が2012年12月を境に、一つの区切りを迎えるそうで、終末論者はこれを地球滅亡の日と宣う。 そんなにも終わりたいものかねと思ってしまうのだが、この根拠は薄い。 そもそも終末論自体、そのほとんどが世界が滅びる日を説くものではなく、一つの時代が終わり新しい世界の幕開けを謳うものが多い。 終末論を考えるとき、同時に宗教を考えるわけで、宗教の目的は救済にあるため、終末思想は、苦しい現在の状況が何故かの問いに対し、審判が下り悪しき者たちは滅び、神の存在する美しい時代がやってくるというものが多い。 この考えが終末=世界の終わりに結びつき、何だか怪しげな空想を生み出してしまっているのだろう。 確かに新しい時代と言われても、何となく良さげには聞こえるが、学のない僕のような人間にとっては、「新しい時代?それツエーのか?」と思うくらいで、正直ピンとは来ない。 そもそもこの思想が生まれるためには、宗教が積み重ねた根底となる思想があって、例えばキリスト教なども、大きな節目にキリストの復活というものがあり、復活したキリストが救世主として世界を新しい秩序に導くというものであることにたぶん大方意義はないと思うのだが、この救世主思想はそもそもユダヤ教の中にあったので、大半の人が「キリストの復活=世界を救済する」という考えに容易にたどり着けたのである。 突然降ってきた考えではないのである。 つまり人が理不尽に終末を迎えるのは、人が悪しきものであって、同時に新しい時代を待ち望んでいる人がいるからであって、そう考えると些かご都合主義的な気もしないではない。 マヤに話を戻すと、マヤ文明にはそもそも歴史は繰り返すという観念があって、マヤは優れた天文学的なアプローチとして、歴史の切れ目を計算しただけで、特に地面が割れたり、大干ばつが来るといった予言をしたわけではない。 要は暦の上で2012年が一つの区切りになるよ、というだけのことで、それが世界が滅びるという話かどうかは、当時の宗教的な考えに立たないとわからないのである。 古代の人々にとって宗教は大切なもので、それは時に現実の意味や、死の恐怖からの回避を語ってくれる。 現代人は恵まれ、科学を信じ、心の機能を忘れかけているので、心の力というものを少しおろそかにしているが、昔の人は今よりもっと思想を持つことで心が強くなり、それが苦しい現実を生きる糧になる。 終末思想が新しい未来に向かう希望だったのは、想像に難くない。 では、実際に終末は来ないのか? しょうもないことを言えば、今週末には来るのだが、そんなことを書くともうこのエッセイを誰にも読んでもらえないので真面目に考えると、当然「終末は来る」のである。 それはノアのような大洪水かもしれないし、パンデミックによる死滅かもしれない。 過去地球は、恐竜と言う生物の頂点を、隕石によって失っている。 たまたま隕石だったから、氷河期が来たくらいで済んだのかもしれないが、これがもし惑星だったら。 有名な話だが、2004年にアポフィスという公転周期が323日という地球に結構近いところをぐるぐるしている、小惑星が2029年に地球にぶつかるという話が盛り上がったことがある。 一方、こちらはあまり知られていないようだが、彗星以外に小惑星と呼ばれるそこそこの大きさの星は、意外と太陽系の中に多い。 この内のどれか一つが、ある日地球にぶつかったら、何てことを想像すると、終末論も少し現実味を帯びてくる気はする。 そもそも彗星が接近するなんて話はよく聞くし、ハレー彗星は何回も地球をかすめている。 1910年に接近した時は、ハレー彗星の尾が地球をかすめるということで、タイヤチューブが売れたそうだ。 何でも彗星の尾には有毒なガスが含まれていて、ハレー彗星が近づくと地球に毒ガスが充満するというデマが流れたからだそうだが、成層圏を越えて降り注ぐ毒ガスって、何だかすごい話で、中々の終末論に感じる。 ほぼ同時期の1908年には、ロシアのツングースカ大爆発と言われる、上空で何かが爆発し、半径30キロに及ぶ森林が炎上、倒壊したという事件も起きている。 原因ははっきり分かっていないが、小型の彗星が何らかの問題で爆発したと考えられており、衝突による大惨事は、映画だけの話だけでは無いようだ。 映画「メランコリア」は、地球の数倍ある惑星が、地球にぶつかる話である。 「元祖天才バカボン」のオープニングバリの衝突である。 映画「ディープインパクト」も目ではない衝撃の規模である。 しかしこの映画はその最も大切な部分に触れず、結婚式を挙げる女が、デカダンスな思想で結婚式を台無しにしたり情緒不安定に泣いたり、裸で月夜に佇んでみたりと、かなりメランコリーなのである。 まあ、一言で言えば呑気なわけだが、この呑気さが物語を美しいものにしている。 実際に映像がなんというか絵画的というか、芸術性が高すぎて、観ているこちらも緊迫感はそんなに感じない。 物語も二部構成だが、一部と二部では話はつながっているが内容が随分と違う。 半泣きで「エレーヌ」と叫びながら花嫁を教会でさらった時と、さらったあとに乗り込んだバスの中くらいテンションが違う。(なんのこっちゃ) 終末とはかくも普通なものなのかもしれない、と逆に感心してしまったりする。 僕は終末の日に何をするだろう。 俗的な考えを思うのだが、やっぱり僕も最後はゆっくりと家族とそれこそ普通の日を送るのかもしれない。 逆に、どこにも逃げられないのであれば、まあ諦めもあっさり付きそうだ。 開高健さんの言葉を借りれば、 明日、世界が滅びるとしても 今日、あなたは リンゴの木を植える  心境である。 実際に経験しないとわからないが、たぶんそんなものだろうなあと思う。 最後にメランコリアの美しい、地球を飲み込む姿が見られるだけ、ひょっとしたら幸せなのかもしれない。
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