ミスティックボール

監督 グレッグ・ハミルトン
出演 グレッグ・ハミルトン
制作 2007年カナダ

理解とは、多くの知識と、謙虚さと、尊敬から生まれるものでなくてはならない

(2012年05月04日更新)

  • 世の中には沢山の人間がいて、いろんなところに人がいるものだと感心したことがある。 アマゾンでこれまで未確認だった民族が最近見つかったらしく、航空技術の発展した現代でも、今だ文明の未開の地があることを世界に知らしめた。 アマゾンの原住民の多くは、当時の権力者に棲家を追われた民族の生き残りなので、これまで敢えて人に見つからないところで生活していたためだろうが、よくもここまで逃げ果せたものである。 動物の例でも、ヤンバルクイナなど、最近まで知られていなかった動物なんかも、夜行性で滅多に人がいるところに出てこない、用心深い奴が多い。 考えてみれば、アマゾンの奥地も、ヤンバルの森も、基本人は入っていかない。 昔川口浩探検隊なるものがテレビを賑わせたが、そんな奴しかアマゾンの奥地の民族など探せないということだろうか。 まあ、川口浩探検隊は、ジャングルにターザンがいたとかいって、森深くから出てきた男が、腕時計をしていたというしょうもないオチが着く番組だったので、たぶん本当に未知なるものは探せないと思うのだが。 今、地球上の人口は70億人強いるそうで、その中には沢山の人種があり国がある。 沢山人がいても、人種が異なればまるで違うものを食し、違う考えを持ち、そして異なる言葉を話している。 そんな異文化に触れるときに、ああ、これはいいなあ、いやそれはどうなんだと思うものが多くある。 そういうものを、純粋にああ面白いなあと感じて、他方に紹介し、世界はどんどん小さくなっていく。 文化とは国の特色であり、国は人である。 人への理解は、人に興味を持つことから始まるので、その国に行き、人に触れ初めて少しだけ理解されるものなので、多くの人は異文化に触れる機会は極端に少ないだろう。 しかし、人を理解せず、違いだけを興味本位で取り上げ、一方的に自分の尺度だけで批判や侮辱をするのは、大変腹立たしく思うことがある。 例えばアマゾンの民族が裸で生活しているのを観て、「うわあ、裸って。頭悪そう」とか反射的に思う場合があるが、多分生活にかけては僕より数倍いろんなことを知っているだろう。 もしも明日地球が世紀末を迎えて、北斗神拳的な世界になったら、僕はまっ先に飢え死にする自信がある。 状況によっては僕の方が「うわあ、あいつアッタマ悪う」なんである。 「ザ・コーヴ」というアメリカ発信のドキュメンタリー?映画を見たときに、この事が真っ先に思いついた。 この映画は簡単に言うと、イルカを食べる文化のある自治体(和歌山県の太地町という日本のどこにでもある漁場)への批判映画なのだが、多分これを観たイルカを食べない人たちは、「うっそん。イルカなんて可愛い動物を食べるの?」とか、「イルカ食うって頭悪いんちゃう?」などと思うのだろう。 日本人が、中国人が犬を食べる習慣があることを聞いた時と同じ反応だろうか? この映画自体は反捕鯨団体の作為的な映画として有名ではあるので、その視点では良く出来ているため、何だかもういいや、無理してクジラやイルカなんて食べへんし、というような気持ちになる人も多いだろう。 酷いのになると、映画を観て動物愛護を理解した気になって、「日本人として恥ずかしいです」とかなんとか太地町に抗議の電話や投書を入れたりする人もいたのかもしれない。 イルカを食す所は他にもあるにもかかわらず、映画の影響だけで、さも太地の人々が鬼のような行為をしているかのように捉えてしまうのである。 逆に知識の無さに恥ずかしい気持ちでいっぱいです。 異文化に触れる時に、自分と違うことを蔑視することが、結局差別を生み、争いを生む。 この映画は正に、その国の文化や人に対する差別や、蔑視の上に物語が成り立っている。 僕はイルカを食べる習慣は、別段やめる必要はないと思っている。 人は人以外のものを食し、利用してこの地球上にいるのだから、食べるものと食べないものを分けるのは、その種が絶滅しないのであれば、またはそのことで生態系が崩れなければ自由で良いのではないかと思う。 可愛いから食べないのであれば、鳥も豚も食べてはいけないのではないだろうか? 少なくとも増えすぎたカンガルーを食べたり、リョコウバトを絶滅させた国に言われたくはない。 スポーツの世界ではこの逆のことが往々にしてある。 そのスポーツを愛することで、そのスポーツを作った国のことを愛し、その国の考えや風土を愛する。 多くの世界の柔道家は、日本人の「柔よく剛を制す」の考えに大変な尊敬を持っているし、礼に始まり礼に終わる、礼節の心に共感を得る人も多いと聞く。 映画「ミスティックボール」も、ミャンマーのチンロンという、藤でできたボールをただ蹴るだけのスポーツに、争わない美を競う素晴らしさを感じ、わざわざチンロンをやるためだけにミャンマーに年間何ヶ月も滞在する男の話で、いかにチンロンが素晴らしいかを始終語っているだけの映画である。 それは大好きな女の子の話をしている男のようで、観ているこちらが少し恥ずかしいくらいである。 僕は中学生の時に少しばかりサッカーをやっていたので、まだ蹴るスポーツにはなじみがある方なのだが、チンロンは見ていてもそんなに楽しそうなスポーツでは無い。 しかし、惚れ込んだ男から言わせれば、世界に唯一の最高のスポーツなのだろう。 だが、この映画の中にも異文化に触れた男が、異国のスポーツの中で尊敬を見出し、そのスポーツが持つ考えに触れ、その国の人々の優しさに共感し、愛したのは、何となくだがわからなくはない。 異文化との交流は、まさしくこの尊敬の上に成り立つ時に、大きなつながりを生む。 理解とは、多くの知識と、謙虚さと、ある種の尊敬から生まれるものでなくてはならない。 世の中には理解が足りないことが、どうも多い気がする。
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