美女と野獣

監督 クリストフ・ガンズ
出演 レア・セドゥ ヴァンサン・カッセル アンドレ・デュソリエ
制作 2014年フランス

女性は皆恋をすれば美人になるのかもしれない

(2015年06月01日更新)

  • よく街中アンケートとかで、「好きなタイプは?」と聞かれて「優しい人」とか「家庭的な人」とか言う人がいる。 まあ、確かに優しくて家庭的な人はタイプではあろう。 しかし、それにも増して外見的な好みに合わなければ、好きになりようも無いので、もし僕がインタービューされるようなことがあれば、「本仮屋ユイカさんのような顔をした優しい人」と答えようと思っている。 と数年前はそんなことを真剣に思っていたのだが、最近はそういう気分も無くなったためか、見た目は最早どうでも良いのではないか?と思うようになった。 むしろ、清潔感や受け答えがそれなりであれば、どんな女性でも魅力的に感じてしまう自分が居て、ただの女好きのようでやや閉口している。 とは言え、街で藤原紀香さんバリの美人さんを連れている男性を見ると、やはりどこかうらやましさを感じ、男性の程度が低ければ低いほど、「金やな」と卑屈なやっかみで心の解決をするようにしている。 まあさもしい話ではあるが、それだけ美女は目を引くと言う事なのかも知れない。 しかし美人というものは確かに街中で見かけると目を引くのかもしれないが、「美人は三日で飽きる」の言葉もあるように、ただの外見だけの美人というものは必ずしも需要があるわけではない。 漫画家で、幾度の美容整形を行った中村うさぎさんの著書の中に、美人の定義である目鼻立ちの黄金比率に近づけば近づくほど、印象が薄い顔になるとあり、美を追求した御仁の意見だけに信ぴょう性がある気がする。 確かに美人というのは不特定多数の人間の平均値だとは思うので、必ずしも美人だから、誰もが好きになるというわけでは無いのではなかろうか。 実際に男性が思う美人の条件の上位は、話し方や肌の白さといった、顔立ちとは関係の無い項目が多い。 特に多くの男性は、美人に対し、母性やセクシャリズムを加算して考えるので、総合的に美人を考えるときには、顔だけではなく、自分を受け入れてくれるか?というものが重要になる。 つまりは「優しさ」や「話しやすさ」も美人の条件にもなるわけである。 何だか複雑な話だが、顔立ちだけの美人は印象が薄く、男性からは魅力を感じないという矛盾があるということである。 一方で女性は美に対し、バービー人形のような完璧なプロポーションと顔立ちを求める。 叶恭子さんのようなプロポーションがあれば、男は皆イチコロ的に思っているのかもしれないが、実はそんなことも無く、むしろ石原さとみさんのような、ほんわかとした美人に魅力を感じる人も多くいる。 また色気についても、女性はただ胸が大きく、すらっと伸びた足に魅力を感じる男性が多いと思っているようだが、実は背の低い、スタイルがあまり良いとは言えない女性に対しても、色気を感じる。 例えば壇蜜さんなんかを考えると分かりよいのだが、彼女は美人で色気がある。 しかしモデルさんの様な近寄りがたさが薄く、適度なエロさを持っている。 高値の花のような近寄りがたい雰囲気が無いのである。 実はリアルな好みのタイプに選ばれるにはこの身近さが重要になってくるのである。 男性にとっての色気とは、まさに自分を受け入れてくれるかどうかであって、人にはよるが、どこか壁を感じる女性よりかは、毎日にっこり笑ってくれる女性のほうが、断然色気や魅力を感じるものである。 そんな美人論を踏まえてみると面白いのが「美女と野獣」である。 知らなかったのだが、詩人で有名なジャン・コクトーのリメイクだそうで、先にヒットしたディズニーアニメの気分で観ると、「随分ちゃうなあ」である。 中でも圧倒的に違うのはベルの扱いで、最初は幼さが合ったベルが野獣に合い、少しずつ大人への女性に変貌していく。 赤や緑の妖艶なドレスを着こなし、時に野獣に口付けを迫られる。 どこかで艶っぽく変身する彼女に、少女の性の目覚めを内包的に感じてしまう。 成長の過程で、彼女はあどけない乙女から美女へと変貌を遂げるわけである。 映画の中で僕は彼女に対し、美人性を感じなかった。 しかし、最後に母になり、愛する男性に口付けられ、そして抱きしめられるシーンを見る時、少なくとも処女性は無く、同時に大人の女性のしなやかさを感じた。 女性は皆恋をすれば美人になるのかもしれない。
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