エクス・マキナ

監督 アレックス・ガーランド
出演 ドーナル・グリーソン アリシア・ヴィキャンデル オスカー・アイザック
制作 2015年 イギリス

この映画のようなグロテスクなものではなく、猫型ロボットくらいでお願いしたいものである

(2016年12月23日更新)

  • 僕はこう見えて(どう見えて?)プログラマの端くれである。 どれくらい端くれかというと、ジャイアンがリサイタルを開くことで自分は歌手であると言っている程度の端くれである。 そんな僕でも知るIT関連の言葉にチューリングテストなるものがある。 今回照会する映画の劇中にも登場する言葉なのだが、簡単に書くと、コンピューターに人工的な知能があるかどうかの実験のことで、昨今流行りのAI(人工知能:artificial intelligence)の精度見極めにも役立つ理論として、最近耳にする機会も増えている。 テストの発案者である数学者チューリングは、1950年にこの実験を提唱している。 日本が戦後復興に必死な時代に今の世の中を見越した考えがあったのだから、日本が戦争に負けてしまうわけである。 最近はAIの発達が凄いらしい。 僕の勤務先にもペッパー君というAIを持つロボ君がいるのだが、フォルムも漫画家の手塚治先生が描いた未来予想図の中のロボ感があって、個人的には好きである。 またもっと身近な人工知能としてはスマホがある。 iOSユーザーの僕はsiriには大変お世話になっているのだが、最近では電化製品にもAI技術があって、お掃除ロボから洗濯機、冷蔵庫にも導入され始めている。 そのうち生活のあらゆるものが勝手に考え始めて、自分は何もしなくてもよいなんて時代が来るかもしれない。 しかし、よくよく考えてみると、ペッパー君が会話をするのは、プログラムに書かれた質問を返しているだけだし、学習ロボットに関してもある種のパターンを体系化してシステマティックに出しているだけなので、知能があると勘違いしているのは受け手側、すなわち人間がそう思っているだけの話しである。 本来知能とは、自らで考え判断する能力なので、与えられた解をもった機械が、その解をランダムに表現するものを知能と呼んでいいのか?と考えていくと、疑問は残ってしまう。 とは言えそもそも人間が持つ知能も脳に詰め込んだ知識の塊であり、その塊を使ってそれぞれ異なる解を導き出すことが判断する能力だというのであれば、AIも人も違いはない。 AIと人間の違いは、知識を更新することができその利用がファジーな分、コンピュータよりも出来不出来が人によって異なるということだろうか? 何となく思うのは、得た知識が同じなら同じAIが育つと思うのだが、人間の場合は人によってばらばらに育つのではないか?と思う。 それは人間はあるがままの知識をプールされるだけの存在ではなく、考え、思い、知識の取捨選択を行う。 機械の様に全てを正しくプールするのではなく、いい加減にインプットする。 先に書いたチューリングテストは、プログラミングされた機械の受け答えを、どれだけ人間っぽく行うことができるのかを図るテストなので、人間が持ついい加減さをどこまで機械が表現できるのかというテストなのかもしれない。 AIは今後間違いなく生活の中に溶け込んでいくと考えられる。 AIの出現で人はどんどん働き場所を失っていくだろう。 ひょっとしたら数百年後には「ガリバー旅行記」で書かれたラピュータ国のように、地上にいる人は空に住む人にくっついて、歩くのを指示したり座ることを教えたりするように、機械が人間の行動を指示する時代が来るのかもしれない。 人は考えるのに忙しくて、話すことも動くこともせず、代わりに機械がすべての問題を解決してくれる。 数個先の扉を開くとそんな世界が待っているのかもしれない。 ということで今回の映画は「エクスマキナ」である。 この映画はよくあるロボット暴走もの映画であるのだが、切ないのは機械が愛を利用することである。 愛は人間が持つエゴイズムなのだが、この物語の人工知能は他人への愛は持ち得ないが、自分への愛は持っているようで、偽りの愛を武器に自由を得ようと試みる。 無論幾多のプログラムが行動させた結果という前置きがあるのだが、人間の心に入り込むほどの愛情をAIが表現できるか?というテーマの元、昔の美人局でもしないような純情ロボを演じる姿が、「このAI大した事ねえな」と思うところなのだが、しかし、実際にハニートラップ専用の機械なんかを作り出す日が来て、それこそすべての人間心理を突いたプログラムがこなせる恋愛マシーンが生まれたら、しょうもない人生を送ってきた僕としては、地下アイドルにはまる童貞おじさんくらい、いちころで恋に落ちてしまうかもしれない。 しかし、実際AI化が進むと、愛をだます機械よりかは、愛を施す機械のほうが多く作られる気がする。 世の中の人間がどんどん異性と付き合うのを避け、また核家族化が進んだ孤独な今の時代にこそ、機械でもよいので愛情を欲しいという人は結構いる気がするのである。 しかし、作られた愛情は本当の愛情ではないので、今以上に人づきあいが苦手な人が増え、性交渉さえもできない人間が出来上がってしまうのかもしれない。 とは言え、人間の原動力の一つに間違いなくエロがあるとは思うので、そのために性交渉専用のロボ君なんかもできてしまうとは思うのだが、人間同士の関係性は薄れ、AIを介した人間生活が送られる日が必ず来るだろう。 facebookやLineなどの希薄な人間関係を重視し、実際の人づきあいをしない人が増加している現状を見ても、すでに未来の人間の営みの変容が予見されているのではないかと思うのは僕だけだろうか。 ひょっとしたらAIの進化は、人間が本来持つ動物的感情を排除させ、新たな人間を作り出す一歩であり、同時に人間が人間としての感情を失ってしまうという意味において、破滅の一歩なのかもしれない。 そう考えると、未来のAI搭載ロボは、この映画のような人間味を帯びたグロテスクなものではなく、猫型ロボットくらいでお願いしたいものである。
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