インターステラー
監督 クリストファー・ノーラン
出演 マシュー・マコノヒー アン・ハサウェイ
制作 2014年アメリカ
前へ進むためには何かを後へ置いていかなければならない
(2015年05月17日更新)
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システム作りを生業としている人は、ほとんど身につけている能力として論理思考というものがある。
論理思考とは物事を大枠で捉え、ブレークダウンしながら順序だててその到達方法を考えていく思考のことで、例えばあなたが休みの日にどこかに行くことを計画したとする。
気分的にはどこか開放感のある場所に行きたいと考えたあなたは、昔行ったことのある神社に行こうと考えたとしよう。
その際に天気を調べて、天候が怪しければなるべく早い時間につくところにするだろうし、晴れだったら着いてからの具体的な行動を想像するだろう。
場所ややりたいことが決まったら、より具体的な行動として、どのような手段で行くのか?例えば車で行くのならばどれくらいの費用で、電車だといくらとか、着いた先で御朱印をもらいたいので御朱印帳を持参するとかそういった準備を始めることだろう。
つまり論理思考とは、決まった事象に対し筋道を立ててゴールに向かう方法を具体的に想像することと言える。
僕は仕事でシステムを作るので、こういった考えは必須条件として持っていたりする。
何故システムを作る際に論理思考が必須なのかというと、仕事には諸般の細かな作業が枝葉のように分かれており、その枝葉のすべてを網羅していかなければ、いくつかの問題にぶつかり、いつまで経ってもシステムができるわけが無いからである。
しかも仕事とは外見上関係の無いセキュアーな部分も考えていく必要があって、例えばウィルスへの攻撃は万全か、データの抜き取りは決まった人しかできないようになっているか?など仕事をする際にはあまり考えないことまで盛り込む必要が出てくる。
要は幹を見ているだけではダメで、葉や根など誰も見ないものや、その木に害を及ぼす虫などにも目を向けていく必要があって、この考えを支えているのが論理思考である。
一方で、何故システムエンジニア(以下SE)は会社で衝突するのか?ということが巷でよく聞かれる。
これは世の中のほとんどの仕事が論理思考が必要ではなく、直感的なものが必要だからだと考えられる。
早い話が、商売の大部分は人が相手なので、人は論理的には動かない。
情や雰囲気に流される。
そういったものを味方にする能力のある人は、SEの「そこは他のロジックと競合する部分なので難しい」とか、「セキュアーではないのでダメです」的な反論に対し、理解を示しにくい。
何故なら人はセキュアーではないし、ロジックどおりに動かないからである。
大事なのは移り変わるニードであり、セキュアーではない攻撃的な思考なのである。
僕は仕事で直感思考の営業も、論理思考のシステム屋のどちらの側にも居た人間なので、この話はよく理解できる。
しかし、僕はどちらかといえば論理思考人間なので、細かな部分を見ずに、命令だけは一人前にする世の中の大半がそうだろうと思える偉ぶるおっさんは嫌いなので、今はシステムエンジニアの道を歩もうとしている。
論理思考で話を広げると、科学者も論理思考である。
科学とはある事象に対し推測したものを実験によって明らかにしていくものであるため、そこには必ず論理的思考が介在する。
実験は反証部分を全て打ち消すことで、確実なものとなり、その推測した理論が証明されることになる。
科学とはそういった意味で人類の夢を、検証によって形にする学問といえるかもしれない。
その反対にあるのが宗教家といえるかもしれない。
聖書に書いてあるような、海が割れるだの、天使がラッパを吹いて降りてくるなどをまじめに信じているとすれば、それは論理思考のかけらも無いように思える。
宗教とは人類が描く理想を、多少こじつけもある教義によって追求していく行為なのかもしれない。
しかし、科学は神への理解があり、宗教にも科学への理解がある。
かのアイザック・ニュートンは科学者であり、同時に神学者でもあった。
この世界は神が創った世界なのだから、その規則にも必ず美しい規則があるはずだと考え、ニュートン物理学を作ったのだろう。
ニュートンは常に自然の中に神を感じて理論を組み立てたのかもしれない。
この考えは現存の科学の現場でも生きていて、宇宙の起源や素粒子の物理的な振る舞いも、知れば知るほど多くの科学者が、神の理論の中にあるからこそこれだけ美しいと感じているようだ。
宗教も科学もそれに特化した考えを持たず、どちらも志向することで、より発展的な考えが生まれるのかもしれない。
システム屋も営業も、それぞれの志向を持つことが、これからの時代に向けて必要な考えなのだろう。
というわけで今回は、久々に大感動の映画「インターステラー」である。
タイトルどおり星の間を行ったり来たりの話しなのだが、この物語は現在の素粒子物理や宇宙物理を知る人が見ると、今まで思考実験の中にあった理論を映像で見せられたことで、興奮してしまうのだが、同時に物語の中に宗教的、且つ人間的な感情がちりばめられていることに気づかされる。
ネタバレが本意のサイトではないため、あまり内容には触れないが、物語の中で時空を操る存在があって、劇中では「かれら」と呼んでいる。
「かれら」とは、宗教で言う神で、科学者で言う五次元生命体のことである。
「かれら」は五次元の世界を作り出し、人類に力の統一理論を解き明かさせる。
しかし、「かれら」の姿はようとして知れない。
主人公は言う。
「かれらに導かれたのではなく、われわれが選んだのだ」
つまり神が選んだのではなく、親の子を思う愛が作り出した道として、重力を克服した世界を作り上げることに成功する。
そこに神が人類を見守る姿があり、神の存在を感じざるを得ない。
物語はSFがグリコのお菓子張りにぎっしりである。
しかし科学の中に織り交ぜるように、愛というものも縫いこまれている。
その考えが顕著に現れるシーンとして、主人公のマシュー・マコノヒーが、ニュートンの運動の第三法則
「物体が他の物体に力を及ぼすとき、他の物体から同じ大きさの逆向きの力を受ける」
をもじり
「前へ進むためには何かを後へ置いていかなければならない」 と、恋人への愛情から乗船を決意するアン・ハサウェイ演じる科学者に告げて宇宙船を切り離し、ブラックホールの「事象の水平線」に飛び込むシーンがある。(このシーン前後も実にすばらしい) 科学法則をなぞらえて、自己犠牲という人間特有の愛を示し、結果、人類を救う量子データを作ることに成功する。 前へ進むために、反発を受ける。 その際に我々は何かを置いて前に向かって進む。 これほどまでにドラマチックに法則を解釈することができたことに、ここ映画のすばらしさを感じずにはいられない。 いつか人類は科学を自由に扱い、ひょっとしたら力の統一も果たし、時空さえも我が物にできるようになるのかもしれない。 その時の人類は今とは違う人類かもしれないが、しかし、愛だけは人類共通の概念としていつまでも持ち続けておきたい。 論理だけではない何かが、きっとこの世の中にある気がするから。 そんなことを考える、本当にすばらしい映画でした。
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