どうして歴史を学ぶのか
知ることで勇気を持つことができ、行動することができる
(2012年02月05日更新)
- 最近の教育では、高校で日本史を学ばずに大学を経て社会に出ることがある。 歴史を必須として学ぶのが小学校と中学校の2年生の時だけという短い間だけで、高校では選択科目となるため、世界史を専攻すると、そのまま日本史をやらずに卒業をしてしまう。 これでは、日本が諸外国に戦争責任を果たせだの、日本の過去の過ちを悔いて反省せよだの諸外国、特に今やアジアの大国のあの国に言われても、はいそうですか、すいませんでしたとしか言いようがない。 歴史を学ぶとは、政治的なプロパガンダを理解し、反論できるだけの材料を持つことである。 藤原達彦さんのよく売れた本に、外国の知的水準の高い人と話すとき、日本は元寇の時代2回攻められたそうだが、最初と後ではどう違ったのか聞かれたことがあるらしい。 日本人しか知らないと思っていたような歴史事実を聞かれたことに驚いたそうだが、一般的に自民族がどう歩んできたのかを知らない、または興味のない人間が、一体他にどんなことに興味を持ち、そして研究することができるのか。 人間の最大の関心ごとは自分自身であり、そこから全ての知る欲求が生まれるのである。 東洋学の内藤湖南は、応仁の乱以前の歴史を学ぶことは無意味である、と言ったそうだ。 歴史は事実に元ずいて検証された事象こそが研究に値するのであって、推量やあてずっぽうは小説の世界でそれは真実の事象ではない。 少なくとも室町幕府を作った人の肖像画が、最近まで間違えていたような時代の事を、学問として研究していくのは相当に骨が折れることだろう。 いずれにしても歴史は人の歩んだ道を正しく書き示すことに意義があって、それを学ぶことで、自らの歩む道の大いなる指針となるのである。 何故天皇陛下に対し皆が敬語を使うのか、または天皇陛下の存在自体がよくわからない人がいるようだ。 しかし、わずか60数年前には戦争に負けた日本が、最後まで守ろうとした天皇制があり、国体を維持することこそが民族の崩壊を免れうる手段と考えた時代があった。 国体を国民体育大会か何かと勘違いをしてしまうのかもしれないが、日本が世界では類を見ない特徴を持つ国家であることは、この国体つまりは天皇制度を歴史的に見ていけば理解することができる。 歴史を知るということは、 現代にはびこる間違いを知ることであり、 外国人と話す最高のコミュニケーションツールであり、 自らの進む道を知るということであり、 そして自分がどういう人間なのかを知ることである。 その結果、僕たちは前に進むことができるし、そして、より正しい道に進むよう努力していくことができる。 この国をこの先も強くしていくのは過去の反省ではなく、自己嫌悪でもなく、歴史を知って、その本当の意味するところを知ることではないかと考える。 知ることで勇気を持つことができ、行動することができる。日本人として最も罪なことは、忘れ去られた過去の本当の出来事を知ろうとしないことではないだろうか。
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