有罪率99パーセントは異常なのか?

100パーセントに近い有罪判決は仕組まれたもの?

(2015年08月21日更新)

  • 最近はあまり聞かなくなったが、無理な自白強要や、取り調べ中の体罰など、密室で行われる行為に対し、様々な疑問を呈されていた時代があった。 それだけ自白の信用性が刑事事件では高いという一つの証明なのかもしれないが、批判の矛先はどちらかというと、無理な強要で、警察が仕事をさぼっている、というニュアンスが強かったように思う。 もちろん、そうやって無理強いで取った自白証言が、そのまま裁判で証拠提出されるわけなので、矛盾だらけの自白であれば裁判でちゃんと白黒つけてしまえばよいと思うのだが、実際はそうはいかない。 日本は刑事事件の裁判の有罪率が99パーセントで、この異常とも思える数字に対し、裁判所もちゃんと仕事していないのでは?という国民のうがった見方があり、冤罪が起こる可能性があるので警察の取り調べを可視化して、不当な自白強要が無いか監視せよ、ということになったようだ。 しかし、実際に取り調べの際に、「僕ちゃんは人を殺しましたか?」と優しく語りかけて誰が自白するのか?と問われれば、よほどのマゾヒストでもない限り、普通は正直に自分がやりましたとは言わないだろう。 かつ丼でも食べさせて、程よく体罰を加えつつ、心が折れかけている時にベテラン刑事が母さんの唄とか歌いながら、「故郷(くに)のおふくろさんも泣いてるぞ」的なことを言わないと、犯人が泣きながら自白するようなことはないはずである。 警察にとってみれば、自白をして、自らの罪を認めるから起訴するのであって、最後までしらを切りとおそうとするような輩は、やっぱり大変骨が折れるはずである。 とは言え警察側も、自白するしかないほどの証拠を集めればよいのだろうが、そもそも犯罪とは隠して行うものなので、相当な地道な作業が無ければ、完璧な証拠など集めることはできないだろう。 時にはやりすぎてでも自白を取りたくなる気持ちはわかるのだが、信ぴょう性を担保するためにも、そのプロセスに思い込みや偏見などの余計な考えが混ざっていないか?ということをちゃんと見ていくことが必要ではないか?と思うわけである。 数多く出された冤罪事件の多くは、やはり捜査のずさんさが見え隠れし、その大部分に差別的考えが混じっている気がするのである。 あいつは生まれが悪いから、ボクサーという野蛮な仕事をしているからと、人を職業や出所だけで判断して、本当に大切な証拠を拾っていない。 こういうことが前に出てしまうと、他の真面目に捜査をしている大部分がかわいそうでならない。 とまあ、ここまではよく聞くロジックなのだが、しかし、自白強要はダメだとしても、先ほど書いたようにその後に裁判があるのだから、そこでちゃんと精査すれば良いのではないか?という考えがある。 裁判では膨大な捜査資料と証拠物件が俎上に上がるわけなので、無理強いされた自白などはすぐに疑念の的になるはずでは?と素人よがりに思うわけではあるが、そこに立ちはだかるのが有罪率99パーセントの壁である。 昔物議をかもした「それでも僕はやっていない」という痴漢の冤罪映画があったのだが、ここでも自白(罪を認める)の信頼性について描かれていた。 本人が罪を認めているのだから証拠などはいらない、とでも言わんばかりに、裁判は一方的に進んでしまう現実がある。 有罪率99パーセントとは、検察が裁判までやるんだから、それはもう有罪でしょう、という慣例みたいなものがあって、それを前提に進められているから99パーセントなんじゃないの?と想像力豊かに考えてしまうわけである。 しかし実際に有罪率99パーセントは悪なのかというと、実はそうではない。 そもそも刑事事件で逮捕されると、48時間を限度として身柄が拘束される。 その後検察側で、24時間以内に勾留請求がされ、それが裁判所で認められると、20日間程度まで拘束期間が延ばすことができ、被疑者は取り調べを受けることになる。(起訴前勾留) つまりこの期間が良く刑事ドラマであるかつ丼を食べさせたりする勾留シーンにあたる。 その後起訴されると、今度は確定判決が出るまで勾留されるので、2ヶ月から数年間身柄を拘束されることになるわけで、実は裁判までにこれだけのプロセスを踏んでいる。 ちなみにさっきからよく出ている取り調べ中のカツどんは、警察のおごりではなく自腹だそうだ。 僕も捕まった時にはかつ丼を食べてみようと思っていたのだが、自腹ならそうめんくらいにしておきたいものである。 しょうもない話はおいておいて、話を戻すと、裁判を行うまでに最低でも3か月くらいの期間、何某しかの労力が必要なので、なるべく無罪になりそうな事案は避けて通りたくなってしまう。 そうすると検察が取る行動はいたってシンプルで、確実に有罪にできる人に労力を使うことになる。 それを裏打ちする数字として、逆に取り調べ段階でやーめたとなって、不起訴にするケースがどれだけあるかというと、実は不起訴率は50パーセント前後程度で、やーめたの人が結構いるのである。 裁判所も同じく人手不足で猫の手も引っこ抜きたい状況なので、一つの事案をなるべく簡潔に終わらせたいと考えているため、まずは有罪であるという出発から判決を考えるほうが能率はよさそうだと考えてしまうのだろう。 結果、有罪率というものが信じられないくらいに大きくなる。 しかし、多くの人が指摘する有罪率99パーセントのロジックは、実は大部分あっているが、間違いもある。 この話の中には、被疑者の知能レベルがあまりにも稚拙に設定されている気がするのである。 99パーセントの中にはグレーのものがきっとあって、しかも皆が皆、強要された自白調書にサインをしてしまうわけではないはずである。 また裁判所がすべて検察の基礎に対し、有罪判決を出すのかというと、それもそもそもおかしなロジックではある。 寧ろ考え方としては、検察が裁判を行う際に、有罪を立証できるだけの物を集めてきていて、裁判所はその一つ一つを検証するに過ぎないシステムになっていると考えるのが妥当だろう。 先にも書いたが、裁判所も検察も人手不足である。 世の中のほとんどの会社でそうだろうが、忙しくて人手が不足すると、仕事をシステム化していこうと考える。 つまり作業にしてしまうことで、判断や検討などの考える作業を極力減らし、効率を上げようとする。 結果として高品質・高効率の仕事が出来上がるが、一方で新しいものへの挑戦や、イレギュラーの対応が難しくなってくる。 普通の仕事でこのイレギュラーの数値が1パーセント(実際は0.1パーセント)だというのであれば問題はないとは思うのだが、裁判というものを考えると、確かにおかしな数字に聞こえてくるわけである。 要は効率化のためのシステムが裁判でいうところの判例に当たると思うのだが、こういったものにすべての基準を合わせてしまうので、検察が行った不正や、こうあるべきだという先入観から、おそらく冤罪が起こり、世の中で非難される部分になっているのだと思うわけである。 つまり、われわれが仕事の中で行っているマニュアル化や効率化が、裁判という現場でそぐわないわけで、問題は裁判官の怠慢でも、刑事の不当な捜査でも、陪審員を増やすことでもなく、単純に検察官・裁判官を増やすことにあるのと、複雑な社会の中で、証拠集めに関する規制を取り除き(例えば個人情報保護の目的で素性を隠すとか)、最新技術の導入、例えば全国のカメラの設置や人間のID管理化などが重要なのである。 もちろん管理と人間の権利は対なのでやりすぎはいかんとは思うのだが、こういったものを並行していかなければ、ただ検察がもっと適切に捜査を行えと言っても、限界があってしかるべきだとは思うのである。 結論として有罪率99パーセントは驚くべき数字ではあるが、今のシステムでは当然であり、且つ検察の優秀さをにわかに証明するものではないということだろう。
■広告

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ
↑↑クリックお願いします↑↑

Previous:巨乳は馬鹿?… 目次へ